進歩し続けろ

1.麻雀との歩み | 2.変化を恐れるな


 麻雀の指南書の中で一際目立つ「東大式麻雀」の文字。東大式を冠するこのシリーズを書いているのは果たしてどんな人なのだろう。今回は、東大を卒業された後に競技麻雀プロとして活躍されている井出洋介さんにお話を伺った。

麻雀との出会い

井出洋介さん

 初めて麻雀牌に触ったのは5歳くらいの頃でした。父がやっているのを面白がって、膝の中で見ていました。小学校1年生の頃には4面子1雀頭(麻雀におけるアガリの形の基本形)揃えるって形は分かっていて、4人のプレイヤーの1人として打っていました。当時は全部の役(アガリの形につく得点の一つ。役が無いとアガれない。)を覚えていたわけではないけど、タンヤオとか役牌とか(共に基本的な役の一つ)役が無ければ立直(リーチ:一定の条件下で、あと1枚でアガリであることを宣言することでつく役)をかければいいとか、数少ないけどいくつかの役は覚えていたので、生意気に1人で打たせてもらっていたのが始まりです。家族でやっているうちに役も一通り覚えて、5年生くらいの時に父に点数計算を教わりました。それで麻雀のルールを一通り覚えたことになりますね。競技麻雀に出会うのは大学生の頃ですが、それまでは仲間内で打ってました。

 中学や高校の時は私が友達に麻雀を教えていました。高校だとルールを知ってる人もたまにいたけど、特に中学の時は知らない人の方が多いわけですから。高校時代はそうやって周りがみんな覚えてくれて、盛んになって。高校3年くらいの時のクラスメートで5人くらい麻雀を打つメンバーがいました。私は必ず入っていましたが、他のメンバーをとっかえひっかえ、本当はいけないのですが授業をサボってね(笑)。年が明けてからはさすがに相手してくれなくなったけど、受験の間際、12月くらいまでは友達とやっていました。そんなことをやっていたものだから、そのメンバーはみんな大学に落ちちゃって。なんか自分だけ抜け駆けしたみたいに言われた思い出があります。なんでこいつが大学に入るんだよ、しかも東大に、みたいな感じでね(笑)。

競技麻雀との出会い

井出洋介さん

 競技麻雀と出会ったのは大学2年生の秋です。大学に入ってからも周りに麻雀を教えて仲間内で打っていました。でも高校の時もそうだったのですが、仲間内でずっと打ってると、トータルすると私が勝ち頭なんですね。昔からやってるんだから勝つのは当たり前くらいには思ってたけど、自分がどれくらい強いのか分からなかったんですよね。その当時は麻雀ブームで、テレビの深夜番組で麻雀教室を放映したり、新聞や雑誌で麻雀のコーナーがあったりして。その時に麻雀の雑誌を買ったら、第1回阿佐田哲也杯(『麻雀放浪記』などで知られる阿佐田哲也氏にちなむ。本名は色川武大。)創設という文字があって。誰でも来たれ、特に若者よ来いという麻雀大会の呼びかけを見て、じゃあ自分はどれくらいなのか試してみようと。2年生の頃は、ちょっと遅い五月病にかかっていたこともありました。もともと勉強が面白くて東大に入ったわけじゃないので(笑)何をやっていこうかということは結構悩みました。僕は何かになりたいっていうものが特になくて、自分が好きなことじゃないとやりたくないっていうわがままなところもあったから、どこかにお勤めするとか役人になるとか、そういう類の選択肢が一切ありませんでした。でも自分がプレイヤーとしてやっていける世界というのは、野球などのスポーツは無理だし、将棋などの世界に入るのも遅いしでなかなかないわけです。そんな時にたまたま競技麻雀の大会に出て、予選を好成績で通過して、これは結構いけると思いました。その時は準々決勝で負けたのですが、読み物とか情報で、真面目に麻雀を競技としてやっていこうという人達がいることを見つけて、面白くなってその世界に出入りするようになりました。大学に行きながら色々な大会に出たりして競技麻雀の世界に触れていって。その過程で麻雀の悪い部分を知るわけですが、大学生の間はそういうことに困ることはありませんでした。様々な経験を面白がって、その世界にプロ的な人達がいることを知って、「かっこいいな、なってみたいな」と思ったのが大学の後半です。他にやりたいことを見つける前に競技麻雀の世界に行きたいってことで頭がいっぱいになって、この世界で食べていけたらいいなと思って、就職とかは考えないまま卒業しました。

 私は文学部社会学科でしたが、そもそもなぜそこを選んだかというと、こんなことを言うと社会学の先生に怒られそうですが、そこなら何をやっても「ナントカの社会学」になりそうなイメージがあって。音楽もスポーツも好きで、その中で自分の好きなことを社会学と絡めてやればいいかなって思っていました。だから卒業後に競技麻雀の世界に進むと決めた段階で、卒論のテーマはこれでいいやって思って(笑)『麻雀の社会学』を書いて強引に出しました。それまで作文なんて400字の原稿用紙に2,3枚しか書いたことのない人間が生まれて初めて4万字もの文章を書いたけど、麻雀に関する文献はたくさんあったから、その文献を使うとそれほど難しくはなかったです。内容はひどいって文句を言われましたけどね(笑)。進路のために、単位は取っておいて1年留年したこともあって、時間の余裕もありました。親にはちゃんと勉強するための1年とか言っておきながら、実際はマスコミとかに出始めちゃったりしてましたけど。当時はもう競技麻雀をやっていたこともあって、今後の麻雀はこのような方向になっていくのではないか、みたいなことを書いていました。その通りにはなっていませんけどね(笑)。今だったらもっと色々なことが書けそうな気がします。実際、出してから数年後に、これくらいのことを書けばよかったなと思ったことはありました。社会学なんだからもっと社会との関わりを書けばよかったと思いましたけど、ゲームとしての麻雀に特化して書いてしまった覚えがあります。

 卒論の原本は卒業してしばらくは研究室にあって、私が貸し出してもらってしばらく家に置いていたのですが、見たいっていう人がいるから返してくれって言われて返したら、なんと紛失してしまったそうです。閲覧した人がどこかに持って行ってしまったとか。残念ですね。

 大学を卒業するとマスコミが東大卒麻雀プロって呼ぶようになって、麻雀プロ井出洋介の肩書きで仕事をすることもありましたが、当初からそんなに仕事がたくさんあるわけではないので、学生時代のアルバイトを続けながらやっていこうと考えていました。学生時代は学習塾の講師のアルバイトをやっていましたが、相当ギャラがいいから食いっぱぐれることはないだろうと。ですが麻雀の異色な人が出てきたってマスコミに出たことで、講師をクビになりました。生徒の親から、変な先生を雇っているじゃないかとクレームがついたみたいで。少なくとも30年前はそういう時代でしたから。それで仕方が無いから、それまで週に1日くらいの雀荘(麻雀荘の略。料金を払って麻雀をプレイできる店。)のアルバイトを4日から5日に増やしたのですが、自分はそのためにこの世界に入ってきたんじゃないよな、と自分に問いかけることがありました。競技プロを目指してやっていたんだから、お客相手に打つ麻雀は本意ではありませんでしたし、色々と思うことがありました。その中で私にとってのモデル、憧れの世界は囲碁とか将棋の世界でした。将棋の世界には若手の友達がいて、かつての将棋の世界も麻雀界と変わらなかった、ですがきちっとした普及活動やスポンサー集めをしたことで今の将棋界があるんだという話を聞いて、自分もそのようなことをやらなければいけないという自覚を持ち始めたのです。丁度その頃に麻雀教室の先生をやってくれないかというオファーがあって、まずは麻雀教室の先生として普及活動を始めました。卒業して2年くらいの頃です。おかげさまで原稿の仕事もちょっとずつ増えてきて、雀荘勤めも1年くらいでやめました。それでまた新しい仕事ができるようになってきて、麻雀タイトルを獲る前には原稿の仕事と教える仕事、そしてゲストで大会に行く仕事などで、2,3年のうちには最低限食べていける程度の仕事を見つけることができました。そうやって堂々とした収入を得るようになって、卒業の2年後には結婚して、その2年後にはマンションを買って、と。卒業したときに、なんで東大を出てまで博打打ちになるのかって言われるような嫌な思いをしたものだから、そうではないってことをアピールしたかったんです。その点に関しては結構いじっぱりで、麻雀プロといっても今はこうなんだってことを見せようという思いが当時はありました。でも、名人位(現在は中止)のタイトルを獲ったのは卒業してから6年後だからその時はまだ獲ってなかったんですよ。名人を獲る前の、新人王を獲るなどの小さな出世はしていましたが、実戦でちゃんと実績をつけないと、誰もが「ふざけるんじゃない」と言われる世界なので、結果を出すしかありませんでした。ただ私は自分でアンテナを張り巡らせていたので、そこから仕事の話を持ってきてもらえました。それが恵まれていたと感じるのが半分、そのように恵まれていたのも自分が麻雀に対して真摯に向き合っていたからだと思うのが半分です。

チャンピオンへの思い

 とにかく最初はチャンピオンになりたくてやっていました。だから最初に大学生の時に出た阿佐田哲也杯に負けて悔しくて、そこからずっと、まずとにかくタイトルを獲りたいって思っていました。ただ当時は麻雀のタイトルの数が少ない上に、名人戦はある程度有名にならないと出れなかったので、すぐには出られませんでした。東大卒麻雀プロで新人王を獲ったりと色々あって、やっと3年目に出られるようになりました。他には王位戦に出たりとかも。それで2回くらい決勝に出ながら勝てずに悔しい思いをしたのですが、1985年にやっと勝てました。それまでは決勝まで残っててもギリギリ勝てない経験をしていますので、絶対に勝つ保証はなかったわけです。このまま一生勝てないかもしれないって思いもゼロではない。けれどもとにかく決勝までは行けたということもあって、本当に強ければそういうことを繰り返しているうちに勝つことができるはずだと自分の中でずっと思い続けていました。そこで初めて勝った時に嬉しいのと、でもこれ一回だけだったらマグレだと思われるから、本当に強いなら次も勝てるはずだからってすぐに思ったのを今でも覚えています。

 名人戦は結局5回勝ちました。名人位というのは週刊大衆(双葉社)主催のタイトル戦で今はもう無いのですが、10年のうち5回(16・17・18・20・25期)勝ったのは私だけで、これは自慢の一つです(笑)。なんだかんだ言って大変なんですね。麻雀で1位になれるのは4人に1人ですから。当時はチャンピオンに4人が挑戦するスタイルで、5人が1人ずつ抜けて5回、つまり1人が4回打って一番成績の悪い人を外して4人であと2回打って優勝を争いました。チャレンジャーになったことも何度かあったのですが、その時は最低3回のトーナメントを勝ち上がらないと決勝には行けません。そう考えるとよく勝っていたものですね(笑)。麻雀は運だけ、なんてよく言われますけど、実績を積み上げていけば分かる人には分かるっていう思いがあって、麻雀は実は実力のゲームなんですよって言いたくてやってきたというのはあります。

新しい団体の設立

井出洋介さん

 私が麻将連合を設立したのは1997年です。その理由は簡単で、麻雀のプロがギャンブラーであってはならないという思いからです。少なくとも私はそう思っています。当たり前なんですけどね。周りが悪すぎる(笑)。堂々と生きようと思ったら私の言うことが当たり前となるのですが、アウトサイダーがかっこいいと思っている人は違うんですよ。人間だから若い頃にはアウトサイダーに憧れる気持ちになってもおかしくないでしょう。私もなかったわけではないです。そういうのに憧れる気持ちはあるのですが、一生を考えたときに、自分のやっていることが本当に分かっていただけないのはなんと悲しいことだろうと思うようになりましてね。麻雀ってみんなが思っているほどひどいものじゃないんだって伝えたくなったんです。だからやっぱり麻雀プロはそういう存在であるべきだと。自分でそう言うだけじゃなくて、みんなにそう思われるべきだと思ったわけです。そのためにはもっともっと努力が必要でしょう。その努力というのは自分達が強くなるのは当たり前で、その他の部分でどう思われているかを変えていくことで、賭け麻雀でない麻雀を普及していかなければならない、そういう気持ちで麻将連合を設立しました。その前からあった、賭けない麻雀の魅力を伝える、麻雀は賭けなくても楽しいんだよって分かってもらうために立ち上げたグループが日本健康麻将協会です。スタートの段階では麻雀は賭けなくても楽しいねって言ってくれる人を増やしたくて、麻雀教室から始めて、それを健康麻将協会まで広げたのが最初のトライです。その発想も、ただ自分で打って強ければいいというだけだった以前の麻雀プロには一切無いものでしたが、私はそれだけでは満足できずに、世の中にちゃんと分かってもらうにはどうすればいいか、と考えた結果がリアル麻雀では日本健康麻将協会です。同じ考えから、テレビゲームの監修もやりました。テレビゲームで麻雀をやっている時は賭けませんから、テレビゲームで楽しいって思ってくれる人が増えるのは悪くないと思います。そういう考えがあったからテレビゲームやオンラインゲームに力を入れてきました。弊害があることも承知の上で、ですが。


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掲載日:10-12-05
担当:亀甲博貴
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