ロシア語
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ロシア語を学ぶこと
ロシア語を学ぶ上での第一のハードルは、なんといっても文字でしょう。英語と違ってロシア語はキリル文字を使います。日本では英語で使うラテン文字が浸透しているという点からいうと、最初の関門はこの文字の違いでしょうね。しかし見方を変えれば、これが学びやすい点であるという見方もできます。どういうことかというと、ドイツ語やフランス語はある程度英語と似ているからかえって混乱しやすいのですが、ロシア語くらい文字をはじめ何もかも違うと、混同せずに覚えられるのです。しかも、ロシア語は覚えてしまえば簡単なんです。英語と比較してみましょう。英語で'read'と綴ると読み方は「リード」ですが、過去形になると「レッド」となりますよね。綴りと読みが場合によって違う。これって理不尽だと思いませんか? これに対してロシア語の場合は、書いてある通りただ「レアド」と読めばいいのです。ロシア語は基本的に書いてあるとおり発音すればいいのです。ただ、ローマ字式に読むときの文字がキリル文字になっているだけなのです。キリル文字だといっても、覚えるのもそんなに難しいわけではありません。ラテン文字の'S'はロシア語では'С'と書くのですが、これは'S'の下が退化したものだという話もあります。もうひとつ、ロシア語を学ぶ上での障害は格変化でしょう。ドイツ語は4格までありますが、ロシア語は6つ格が存在します。つまり、それぞれの語が文のなかでどんな役割を果たしているのかを明示するのに、日本語では助詞を付けて示すのですが、ロシア語では語尾を変化させる、その変化の仕方が6つあるということです。これも、見方によっては学びやすい点になるかもしれません。英語は格変化がない代わりに語順が重要です。ところが、ロシア語は文の成分を単語の変化に委ねているから、語をどの順番に並べても意味が通じるのです。日本語に近いものがありますね。「私は 彼女を 愛しています」「彼女を 私は 愛しています」「愛しています 私は彼女を」どの順番で言っても通じます。ロシア語もこんな感じのフレキシビリティーがあるのです。格変化を覚えるのは大変だけれども、覚えてしまえば非常にわかりやすい言語です。文法体系もきわめて論理的で、論理的な思考をする人間には理解しやすい言語かもしれません。
第二外国語としてのロシア語
僕は別に第二外国語としてロシア語を選んでもらわなくてもいいんです。それよりも、第二外国語を学ぶこと自体に意義を求めたいと思います。ロシア語でも、スペイン語でも、中国語でも構いません。未知の言葉を知ることによって、自分が使っている言葉を対象化するのが大事だと思います。他の言葉を介することによって、自分たちの言葉や文化を見直すことができるということです。そのためには、自分が興味を抱いた言語を学ぶのが一番でしょう。だから別にロシア語を学びなさいとは言いません。対象化するということの例を挙げましょう。日本語で「教育」という言葉があります。日本語だけで考えると、「教育」というのは「教えて育む」ことだということしか見えてきません。しかし他の言語を介してみると、その語が持つ別の意味を知ることができます。ロシア語で「教育」は'образование(オブラゾヴァーニエ)'と言います。これは「型」という意味なんです。よくよく考えたら、「教育」っていうのはそういう一面を持っていますよね。工場で何かの製品を作るかのように、型にはまった人間を作る、それが「教育」なのではないですか? 人間が生きていく上での作法、それを叩き込む。だから、「個性的であれ」なんていいながら、その実画一的な授業をしている。つまり「型」にはめているわけです。ロシア語はそのままずばり、「教育」とは「型」だと表現しているわけです。こんな風に自分たちが持っている文化や思考をもう一度見つめなおすことができるのです。もう一つ面白い例がありますよ。「事件・出来事」のことをロシア語では'событие(ソブイチエ)'と言います。「ブイチエ」というのは「存在」(being) という意味の語で、'с'は英語でいう'with'と同じ前置詞です。つまりロシア語では「事件・出来事」というのは「存在と存在のぶつかり合い」という原義を持っているのです。まさに「事的世界」でしょう。「出来事」というのはわれわれの外で起こることではない、まさにわれわれの「存在」がもう一つの「存在」と出会うことによって起きるのだということをこの語は示しているんです。「なるほど、深いなあ」と思いませんか? ものごとを深く考えるというロシアの思想的背景があって、そこからこのような言葉が生まれてきたのでしょう。第二外国語の学習は、そんな言葉の根源的な意味を考えるきっかけを与えてくれるのです。
ロシア語を学ぶことの意義をもう少し特化してみるとこうなるでしょう。ロシア語は、今まで勉強してきた英語とは違う世界観を持っている。また、フランス語やドイツ語、つまりヨーロッパ文化圏という一つのまとまりとも違う世界観を持っているといえます。言葉とか言語というのは一つの世界観です。ロシア語にしろ、ドイツ語にしろ、フランス語にしろ、今一元化しつつある世界とは違ったもう一つのオルタナティブを与えてくれるのです。第二外国語を通じてわれわれは、ロシアを含め、多様な世界を知ることができるのではないでしょうか。
学生に対しては、多様な世界を知るために第二外国語を学んで欲しいのです。「ソブイチエ」、すなわちわれわれの自己が別の自己とぶつかることで何かが起こるのです。色々なものの見方、それがぶつかり合うことによって面白いことが見えてくるのです。
学生には、未知であること、知らないことに貪欲であって欲しいと思います。「既知は未知を生む」という言葉があります。確かにそうでしょう? 世界でどんな悲惨な恐ろしいことが起きていたって、何も知らない人間は安閑としていられます。それはそうでしょう、何も知らないわけですから、心を乱されることもない。その意味では何かを知ることは、とても苦しいことです。今までの安定して自分ではいられなくなるわけですから。しかも困ったことに、何かを知ると、「自分はまだこんなことも知らない」「まだあんなことも知らない」と、「知らない部分」が増殖していくのです。だから、「知ること」は恐ろしいことなのです。知れば知るほど知らないことが増えてくる。「勉強する」なんて、みんなこともなげに言いますが、勉強して知ってしまうと大変なんですよ。大学で何かを教えてもらおうなんて安直に考えてはいけないと思います。知れば自分が変わらなければならないのです。学生にはそうした覚悟が必要であることを自覚してもらいたいのです。
授業で心がけていること
僕は関西の人間で、いわゆるお笑い系です。そのためか、授業では一方的に伝えるということがなかなかできないのです。学生は教師を選べるんですが、教師は学生を選べません。学生はいやなら授業をさぼることだって出来ますが、教師はいやでも教室に行かなければならない。つまらないと思いながら授業を進めるのは、学生も教師もお互いに不幸です。だから、僕はロシア語の授業の最初に、一緒に授業をやる限りは、お互い楽しくやりましょうと言います。だけど最近の学生は、そういったことにあまり乗り気ではありませんね。嫌な思いをして「やらなきゃいけない」と思っているよりも、面白いと思ってやったほうが学生にとっても得だろうと思うのです。授業では、そう感じてもらえるように努力をしていますが、でも案外伝わっていないかもしれませんね。
僕はときどき授業のはじめに「今日手抜きでやるぞ」って言うことがあります。これはそのままの意味ではなくて、何から何まで全部説明しつくすより、何か欠落感があったり、足らない部分を残したほうがいいかなと思って言う言葉です。一部を抜いたほうが、「ここは一体どういうことだったんだ?」と自分で考えて、主体的に授業に取り組んでくれるかもしれない思うからです。ところが、最近ではこの言葉を額面通りの意味で受け取って、僕の授業を単なる手抜きだと思っている学生が多いらしい。僕はときどき皮肉っぽくものを言うのですが、最近の学生は生真面目すぎて真意が伝わらないのですかね。
ロシア語の授業では、文法とはなんとも関係ないし、初級の授業で扱うこととは全然関係ないのだけれど、派生的な知識を紹介することはよくありますね。
最近の学生に感じること
最近の学生は、あまり質問しに来ませんね。たまに授業終わって質問に来る学生がいるかと思ったら、「先生、試験はどうなりますか?」という試験関係のことばかりです。これには少し落胆しますね。しかも授業が終わってからの質問が多いです。できれば、授業中にどんどん質問して欲しいですね。自分が疑問に思ったことは、誰もが知りたいことなんです。授業を聴いて出た疑問を自分だけのものにしないで、みんなと共有して欲しいと思います。みんなの前で質問するのはなかなか勇気がいることだとは思いますが、これはクラスの雰囲気の持って行き方で解決できると思います。「お互い楽しくやろう」というと、うるさいくらいに色々質問してくる人もいます。でも、僕はその方が楽しい授業になると思っているのです。語学の少人数授業なら尚更、たくさん質問してください。僕も、質問がしやすいような授業作りに努力をします。
編集後記
ロシア語を「第二外国語の選択肢の一つ」として、客観的な観点からお話してくださった浦先生。筆者も、今後ロシアの経済的復興が進むに従い、ますます存在感を増してくるであろうロシア語を勉強してみたくなった。
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