基礎統計
1.講義について | 2.学生に対して
前期課程で統計を学ぶ意義
日本の統計教育の大きな特徴ですが、日本の大学には統計学部や統計学科というものがありません。そのため、ほとんどの学部に統計の専門家が、そんなに多くではありませんが、いらっしゃいます。だいたいどの学部でも完全な必修ではなくて、10科目の中から8科目取らなければいけないというような、いわば選択必修の科目の中に統計が入っています。そして、例えば経済学部ならば経済学で主として使う統計の手法、文学部の社会学ならば社会学で使う統計の手法、さらに理系の場合もそれぞれの分野で使う統計の手法の講義がなされています。もちろん、それらの内容は、分野によってかなり異なりますが、基本的な概念は教養の基礎統計で教えているものです。その意味で言うと、統計の講義は後期課程でも聴くことになますので、前期課程での講義に関しては、それだけで統計を完全に理解してもらうことは必ずしも期待していません。少しでも聴いたことの記憶があれば、将来、後期課程において自分の専門課程での統計の講義を聴く時に、抵抗感が弱まり、とっつきやすくなるだろうということです。
ただし、もう少し先のことを言うと、アメリカなどには統計学部や統計学科がたくさんあって、例えばアメリカの大学に留学した場合、大学院では政治学でも経済学でも社会学でも、また心理学は特にそうですが、どの分野でも統計は必修です。そういうこともあり、前期課程、後期課程で統計の授業を取らずに留学すると大変苦労する人が多いようですね。そのような状況は留学だけではなくて、社会に出てもそうです。
統計の応用例
様々な分野で統計の手法が用いられています。統計学の歴史で言うと、一番古いのは農業統計や生物統計の分野です。例えば稲の品種改良などをする時に従来の稲の種と改良した種をまいて、生育状況やできたお米の味を調べますよね。その時に農場の物理的な場所は動かせないので、日当たりや水はけといった物理的な性質が区切った区画によって固定されてしまいます。そうすると、品種改良した稲の良し悪しは本当に品種改良の結果そうなったのか、それとも日当たりや水はけが良かったからそうなったのかわからないわけです。そこで統計の手法を用いて品種改良は果たして効果があったのかを検証するわけです。
それから、生物測定でも統計の手法が使われています。典型的には人間の身長や体重を測定した結果得られたデータはまさに統計の対象になります。長い知識の蓄積から言うと、人間の身長は最もきれいな正規分布(編注:ある値をとる確率が平均値をピークにベル形になる分布で、確率を値の関数とした時にその関数がある条件を満たすもの。)に従い、体重の場合は3乗根が正規分布に従うことがわかっています。
その他に、工学的な分野でも種々様々な応用があります。例えば品質管理ですが、これは様々な手法が確立されていて理論的にはほぼ成熟しています。現在では実際の製造現場にそれがどんどん導入されていて、さらに最近はそのほとんどが自動化されています。現在日本の工業製品の品質が安定しているのは品質管理の理論によるところが大変大きいですね。
今まで挙げたのはプラスの側面ですが、一方で歴史的には、特に1930年代から40年代にかけてさっき言った生物測定が人間の身体的な特徴だけでなく能力や知能にまで進んでいきました。当時の言葉で優生学と言います。社会学の専門家が戦前から戦中の日本やナチスドイツが優生学の思想を広めていった過程、それに基づいて行ったことに関して研究していますが、その優生学の一つの柱が統計学でした。
また経済学の分野に近い応用例を言うと、最近は必ずしも統計の分野に収まりませんがリスク論は幅広い分野で使われています。リスクとは確率が表す不確実性そのもののことです。最近はリスク管理やリスクコミュニケーションという分野もあります。リスク論はここ10年から20年の間に急激に注目され進歩してきましたが、リスク論のオーソドックスな分野は保険で、これは大変昔からあります。ベニスの商人の時期、すなわち16世紀くらいにいわゆる損害保険の考え方が出てきて、それがもう400年近く続いているわけです。
基礎統計の講義では医学や薬学の分野の応用例も話しています。特に新薬の開発の分野では新しい薬に関するデータを集めてそれが本当に効くか、副作用は無いかなどを調べるわけです。現在、このような応用例は大変重要なものになっています。
先生の専門について
私自身は経済学の分野における統計が専門です。具体的に、経済統計が主として私のフィールドです。その中でも時系列分析と言って、年単位とか月単位とかで観測されたデータを分析する手法を扱っています。金融工学は時系列分析の発展形で、いわゆる時系列分析では主としてGDPや産業の売上高の年単位、四半期という3ヶ月単位くらいのデータを見ていますが、金融工学では株式市場や為替相場などで出てくる秒単位の大量のデータを扱っています。そういったデータを分析する手法自体は70年代の後半くらいに開発され、現在はそれを株取引や為替相場に適用したモデルが急激に発展していて、大変注目されています。実際にその手法を開発した人はノーベル経済学賞をもらいました。
しかし昔からよく言われていることですが、経済学を修めて金儲けに成功した人はあまりいないんですよ(笑)。金融工学でも、株とか為替はまさに秒単位で動いていて、他の人より一秒でも早く取引をすると莫大なお金が儲かることがありますが、残念ながら我々の仲間で儲けた人はいません。しかし歴史的に有名な人物で、ケインズというマクロ経済学の創始者は経済学の理論的な能力だけでなく金儲けの才にも長けていたようです。
学生に対するメッセージ
私は大学の教員として駒場の前期課程で教えることが本務で30年くらい教えています。同時に他の大学でも非常勤講師として教えた経験もありますが、その経験を踏まえて言うと、駒場の人たちは恵まれていると思います。それは様々な理由からですが、1つは前期課程で分野を特定せずにいろんな講義を聴くことができるからです。講義をしている人達がみなさん優秀な人だからということもあります。ですから、みなさんがいろんな知識を吸収することに貪欲になれば、こんな良いところはないのではないかと思います。
先ほど留学に関して少し話をしましたが、最後にその話に関連して言うと、留学するというのはかなり意欲と努力が必要なことです。特定の分野で優れた能力を持った人が留学して、全く新しい環境で勉強するということは素晴らしいことだと思います。しかしその時、私個人もそうでしたが、日本人の留学生は専門分野で優秀であっても自分の国のことをよく知らないと言われてしまいます。これは個人の能力とか努力とかいう問題ではなくて、日本の教育制度というもっと大きな原因があるかもしれませんが、やはり一人一人が自分の国のことを知るべきであり、その努力をすべきだと思います。
取材後記
先生のお話を伺っていて、統計がほぼ全ての分野で活用されていることを改めて実感しました。毎年非常に多くの学生がこの講義を選択するのも納得ですね。筆者は1年の夏学期に講義を受けましたが、その後の基礎実験ではここで得た知識が大いに役に立ちました。
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