文学部(オープンキャンパス2012)

文学部

文学部では、模擬講義と研究室ツアー、そして留学を経験した文学部生の発表が行われ、そのうち模擬講義と研究室ツアーを取材させていただきました。

模擬講義は2つ開かれ、それぞれの担当教授と題目は熊野純彦教授(倫理学)「時間と永遠―時のあいだを生きる、時の流れを超えて考える―」と、沼野充義教授(現代文芸論)「世界は文学でできている?―詩や小説が何の役に立つのか?」。研究室ツアーは、考古学研究室と文学部図書館を回るコースと、中国語中国文学研究室と社会心理学研究室を回るコース、文学部カレンダーの写真を回る散策コースの3種類がありました。

どれも魅力的で迷いましたが、今回の取材では、熊野教授の模擬講義を聴講してきました。

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模擬講義の最初に文学部長の中地義和教授が挨拶をされ、文学部は人間の基盤をつくる学問であるということと、参加者にはこの模擬講義を通して東大・文学部に進学するモチベーションを高めてほしいということを話されました。

熊野教授の講義は「1.時間の何が問題か」「2.アウグスティヌスの時間論」「3.『時の流れ』を超越すること」という流れで行われ、まず時間を哲学的に考えるとはどういうことかについてのお話がありました。人間はみな有限を抱えている存在であり、時間という存在は人間にとって身に迫った問題である。時間について考えて、これだという答えが出るかというとおそらく出ないだろうが、そのような答えの無いところで立ち止まって考えることこそが哲学だ、というのです。

ところで、時間(4次元)と空間(3次元)を比較したとき、空間はその中で物が動く場、また視覚でとらえることのできるものです。対して時間は、その中を動くことはできず、目で視ることができません。「時間の流れ」という言い方がありますが、そこで「流れているもの」とは何なのか?

「(時間について)だれも私にたずねないときには私は知っている。たずねられて説明しようとすると、私は知らないのである」と述べるアウグスティヌスの考察によると、過ぎ去らないならば現在は「永遠」であり、それは「現在」とは呼べない、そこに時間は存在しない。時間は、「それ」がつねに存在しない方向(「過去になる」方)へと向かっているが故に「存在する」といえるのではないだろうか。

では、「時間的に限られた」存在である人間は、そのような時間・有限性に対してどのように向きあえばいいのでしょうか? ここで不老不死を求めるなら、人生はいつ何をしてもいい・しなくてもいいという無意味なものになってしまいます。人間は自らの有限性を、自分の人生に意味を与えるものとして積極的に受け入れていく存在なのです。

最後に熊野教授は数学の背理法を取り上げながら、仮定を通して「時間を超越するもの」に触れるという考え方を示し、講義を終えました。それこそ限られた時間での講義でしたが、その先に哲学の遠景を見ることができたように思いました。