当日の様子

8月5、6日に行なわれた2015年オープンキャンパス当日の様子をご紹介します。



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模擬講義「隕石落下からはじめる空気力学の世界入門」
工学部 @工学部2号館213教室

大学院新領域創成科学研究科の鈴木宏二郎教授は、隕石落下を切り口として、空気力学の概要や実験方法について講演されました。

2013年の冬にロシアのチェリャビンスクで起きた隕石落下では、隕石が光を発しながら分裂しました。教授はその映像を紹介され、この現象の分析に空気力学を用いることができるとおっしゃいました。そして、分析のための概念として空気のエネルギー保存則とマッハ数を挙げられました。空気のエネルギー保存則によって、物体がせき止める空気が高速であればあるほど温度が上昇するということを導けます。マッハ数は空気の流速を音速で割ったもので、数字が大きくなるほど衝撃波が発生します。マッハ数が5以上の流速は極超音速(ごくちょうおんそく)と呼ばれます。チェリャビンスクでの隕石落下では極超音速が観測されました。

教授はさらに、隕石と空気との関係を再現する手段として極超音速風洞実験を説明されました。これは隕石に見立てた物体の方ではなく、空気の方を動かすことで、隕石と空気の関係を再現する実験であり、一見すると工場のような大規模な施設において、隕石代わりの氷に対して高速で空気を流します。柏キャンパスには、これを実現する極超音速高エンタルピー風洞がありますが、日本の大学でこのような極超音速風洞があるところは珍しいそうです。今回の実験では、まず均一な氷の場合、空気を受ける側が帽子のつば形となり、予想とは逆に空気抵抗が大きくなりました。その一方で、ドライアイス入りの不均一な氷の場合、空気を受ける側がさらに不規則に変形し、衝撃波の大変形という現象を観測できました。教授は最後に、工学を利用して自然現象を見ることの面白さを述べられました。その上で、氷の変形のような物理現象の解明を目的とした研究も、衝撃波の影響を弱くする飛行機の形をさがす工学的な研究も、空気力学の応用であり、どちらも重要だと締めくくられました。

会場には約200人の高校生が集まり、中でも最前列の高校生は教授の問いかけにも特に積極的に反応していました。実際の映像が多用されたり、高校の物理との比較がなされたりするなど、説明方法が工夫されてわかりやすくなっていました。空気力学に対する関心が深まる模擬講義でした。


担当: 伊藤重賢 *

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模擬授業「水田の水と土の科学」
農学部 @弥生講堂

弥生講堂では農学部の模擬授業が行われ、多くの高校生が集まりました。筆者が取材した授業は、水利環境工学研究室の飯田俊彰准教授による「水田の水と土の科学」です。

「研究内容と苗字がよく合っている」とおっしゃる飯田准教授は、水田について研究されているそうです。まず水田の分布を示した表や水田の様子の写真を見せ、水路や土壌の構造など、水田に水をためるための仕組みを紹介されました。水田に水をためることにより、水分や養分の補給が安定化する、作業がしやすくなる、温度の急激な変化を避けられる、毎年継続して栽培できるなどの利点があるそうです。

講義はより化学的な内容に移ります。普通、土壌には大気から酸素が取り込まれ、その酸素を利用して土壌中の有機物を好気性微生物が分解します。しかし水田は水をためることで、大気から土壌に酸素が拡散しにくくなり、次第に嫌気性微生物が増えていきます。嫌気性微生物は、土壌を還元的な状態に変えてしまい、土壌に還元層を形成します。飯田准教授は、湛水後に好気的(酸素が多い状態)な土壌が嫌気的(酸素が少ない状態)になり、鉄の濃度やpHが上昇する様子をグラフを用いて説明なさっていました。

一方、酸素を消費する好気性微生物が減少することで、土壌の上部には酸素がたまり、酸化層が形成されます。これらの結果、肥料に含まれるアンモニウムイオンが酸化層で硝酸イオンになり、さらに還元層で窒素になるというメカニズムが完成します。この窒素循環のバランスが、農業活動や工業活動によって破壊されると、様々な環境問題が起こるそうです。

農業と環境問題との関係はこれだけではありません。地球温暖化を引き起こす温室効果ガスの一部であるメタンや亜酸化窒素は、農地から排出される割合が高く、これらの排出を抑える農法の研究が進められています。水田を一旦乾かす「中干し」や、水が土に浸み込む速度を速める「暗渠(あんきょ)排水」はその一つであるそうです。

今回の模擬授業は、普段はなかなか考えることのない水田の役割、そして水田と環境問題の意外な関係について学ぶよい機会となりました。高校生にとっては、農学部を出発点とする一つの方向性について知ることができたので、刺激的な講義だったことでしょう。


担当: 野上宏樹 *

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模擬講義「進化し続ける角膜の外科治療」
医学部 @医学部2号館3階大講堂

医学部の山上聡准教授は、「進化し続ける角膜の外科治療」というテーマで模擬講義を行われました。「高校生のためのオープンキャンパス」であるため来場者はほとんどが高校生でした。会場であった医学部2号館三階の大講堂は後ろの方まで席が埋まり、盛況でした。

この講義のテーマは題名の通り「角膜の外科治療の進化」でした。講義では最初に医学部長からの挨拶があり、その後すぐに内容に入りました。角膜は眼球の最表面にある組織で、目に入ってきた光を屈折させる役割を担っています。角膜は上皮細胞・実質層・内皮細胞の3層に分かれているのですが、このうち再生能力があるのは上皮細胞だけであるため、他2層で問題が起こった場合、従来の治療法では角膜を全て移植するしかなかったそうです。しかし、これでは拒絶反応が出る恐れがあり、また縫合の際の僅かな歪みのために乱視となってしまっていました。ところが最近の治療法では、異常が起きた層だけを移植することで拒絶反応を軽減、場合によってはなくすことができるようになったということです。

また、上皮細胞の場合も、再生能力を持つ細胞である幹細胞が全て死滅してしまった場合、従来は治療が難しかったそうですが、現在ではもう一方の目の上皮幹細胞、または口の粘膜の細胞から培養したシートを移植することで治療ができるようになったとのことです。山上先生は、このような再生医療を上皮細胞以外にも適用していくことで、拒絶反応もなくなるとともに世界的なドナー不足も解消できるのではないか、という将来的な展望もお話しされていました。

最後に設けられた質疑応答の時間では、レーシック手術など身近なことに関するものから角膜治療の分野における日本の立場に関するものまで幅広い質問が飛び出し、来場していた高校生の医学への深い関心がうかがわれました。

講義では、具体的な治療法に関する話の前に角膜の構造など基本的な情報についてのお話があり、受講者が理解しやすいようになっていました。また、ときに冗談を交え、また実際の手術の映像を用いるなど、興味を引きつける工夫にあふれた模擬講義でした。


担当: 渡邊大祐 *

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講演「近代日本と東京大学法学部」
法学部 @法文1号館21番教室

オープンキャンパス1日目の午後には、法文1号館25番教室で法学部の講演会「近代日本と東京大学法学部」が行われました。西川洋一法学部長が東大法学部の歴史についてお話しになりました。

東京大学の歴史は1877年にさかのぼります。この年、東大の源流である東京開成学校に法学部・理学部・文学部が作られ、それに旧東京医学校から作られた医学部が合併されて東京大学が誕生しました。日本初の大学として設立された東大は、近代化に向けて西洋の学問を輸入することを目的としていました。最初期の東大法学部では、日本の法律が十分に整備されていなかったため、イギリスやフランスの法律に力点を置かざるを得ませんでした。

1886年に東京大学は帝国大学となり、法学部の制度や学科編成も整備され、現在のそれに近づきました。帝国大学令では、帝国大学は国家の役に立つ学問の教育と研究を行うべき施設とされ、当時の法学部・文学部の学生は試験なしで官僚になることができました。1890年にはフランスの法学者・ボアソナードが作った民法案が民法典論争の末に採用されず、それに代わる新たな民法典を東大の当時30歳代の教授であった梅謙次郎・穂積陳重・富井政章らが中心となって起草しました。この民法典は1898年に施行され、その中心部分は現在まで使われていることからも、非常に優れたものであることが分かり、その頃から東大が優秀な人材を輩出していたことが伺えます。やがて大正デモクラシーの時代に入ると、天皇機関説を唱えた美濃部達吉や民本主義を主張した吉野作造など、優秀な法学者・政治学者が多く出てきました。彼らは日本が西洋の先進国と同じ方向へ発展すべきであると考えて研究・教育を進めます。

しかし戦争が近づくにつれ、社会では思想・言論の統制が強まっていきます。東大法学部でも、学問の自由を脅かされるいくつもの事件が起きます。1933年に京都大学で起きた滝川事件の際には、京大の滝川教授の著書が危険思想を含んでいるとして発禁処分になったことに反発し、東大法学部でも学生が抗議集会を開きました。1935年の天皇機関説事件では、右翼団体と軍部を後ろ盾にした貴族院において美濃部の憲法学説が批判されました。美濃部の著書は発禁処分となり、天皇機関説を教えることも禁じられました。翌年には美濃部が右翼暴漢に銃撃されることもありました。教授たちは自分の考えを研究室の中でしか自由に話せないようになっていきます。これら東大法学部に対する攻撃と並んで、戦争の激化に伴い学徒出陣によって多くの学生が戦場で命を落としたことも忘れてはいけません。

戦争末期には南原繁に法学部7教授による終戦工作が行われたものの効果はなく、1945年8月に戦争は終わります。東大法学部の教授たちは現行憲法の作成にはほとんど関わってはいません。それは戦後の法学部を代表する丸山眞男でさえも、昭和天皇及び近代天皇制への「思い入れ」にピリオドを打つのに苦労したと回想していることと無縁ではないでしょう。しかし新憲法草案が発表されてから、法学部ではその研究に組織的に着手します。とはいえ、丸山眞男は、戦後の法学部に対しては疑問を持っており、法学部改革の試みについて「挫折してしまった」と述べています。

けれども東大法学部が明治以来、日本の進むべき方向を指し示し、変革の重要な要素となってきたことは間違いありません。「みなさんには、深い勉強をして、世界の法・政治を知的に変革できるようになってほしい」西川法学部長は最後にそう締めくくりました。講演を聞いていた高校生たちは深くうなずいていました。

※写真は東京大学法学部提供。


担当: 望月洋樹 *

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