ジョサイア・コンドル像

ジョサイア・コンドル像

1877年、コンドルの来日と同時に日本の建築学は始まりました。工部大学校造家科(のちの東大工学部建築学科)で教鞭を執り、優秀な弟子たちを次々と世の中へ送り出しました。
 いわゆる「お雇い外国人」として来日したコンドルの契約年数は5年間でした。しかし来日前から日本文化に興味があったコンドルは日本の女性と結婚し、1920年東京で没しました。

ジョサイア・コンドル像

来日の1年前、コンドルは本国イギリスで王立建築家協会主催コンペに一位入賞(ソーン賞受賞)しています。この賞を受賞することは一流建築家の仲間入りを意味し、23歳のコンドルは期待の新人として注目されていました。しかしこの年のうちに明治政府の要請を受けて日本行きを決定してしまいます。
 日本で待っていたのは辰野金吾ら造家学科の第一期生でした。コンドルは彼らを一流の建築家へと育て上げました。明治期の名建築の多くはこの第一期生4名とコンドルによって作られました。
 良くも悪くも文明開化の象徴として有名な鹿鳴館や神田のニコライ堂はコンドルの代表作です。他にも最近復元計画が持ち上がっている三菱一号館や三菱財閥の創始者・岩崎久弥の邸宅などを手がけています。
 弟子たちの作品には東京駅や日本銀行(辰野金吾)、迎賓館赤坂離宮(片山東熊)、日本橋や横浜赤レンガ倉庫(妻木頼黄)があります。

ジョサイア・コンドル像

コンドルの持つ重要な側面として忘れてはならないのが、日本文化を世界へ向けて発信したという点です。当時ヨーロッパには文化的刺激として東洋趣味がありました。前途ある青年であったコンドルが日本に来たのも東洋趣味としての好奇心が影響していたに違いありません。これを裏付けするかのようにコンドルは河鍋暁斎という絵師の門下に入り「暁英」の号をもらっています。暁斎の死後、師の仕事をまとめた本「Painting and Studies by Kawanabe Kyosai」を出版、暁斎の名を世界に広めました。

人々から親しみを込めて「コンドル先生」と呼ばれた彼の銅像は工学部1号館前の広場に立っています。関東大震災以前の本郷キャンパスを計画したのもコンドルでした。オープンスペースによってキャンパスを統合することを基本方針としたコンドルが今の本郷キャンパスを見たらどんなコメントをするのでしょうか。聞きたい反面、聞くのが怖くもあります。


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