川松あかりさん

1.どうすれば人の話が理解できるか | 2.顔見知りも増えた筑豊での日々 | 3.自分自身も差し出して一緒に考える | 4.同じ社会の全く違う世界で得たもの


総合文化研究科・文化人類学コースに所属する博士課程の学生は、1年から2年、長い人では数年にわたって、フィールドワークに向かいます。今回はその中で、福岡県鞍手町に1年間下宿し、筑豊炭田に関するフィールドワークを行った川松あかりさんにお話を伺いました。

どうすれば人の話を理解できるか

―文科三類だったそうですが、なぜ進学選択で文化人類学を選んだのですか。

大学受験のころから文化人類学を何となく目指していました。

小さいころからお話を聞いたり本を読んだりするのが好きで、アイヌやネイティブアメリカンのような先住民族の民話も読んでいました。民話の中に描かれる人々は自然と調和しながら生きているように思えて、何となく憧れていたのを覚えています。高校生のころは、将来環境問題の解決に関わりたいと思っていましたが、そのために必要と思われる理系の科目が大変苦手でした。民話などを読んでいて、文化人類学なら、様々な民族の生きざまについて学ぶことを通して、文系の立場からでも環境問題に取り組めるのではないかと夢想していたのです。また、元・朝日新聞記者の本多勝一さんが少数民族と長期間共に過ごした記録をまとめた『極限の民族』を読んで、ルポルタージュを書くことにも魅力を感じ、文化人類学だったらこんなことができるのではないかと思っていました。

ただ、実際に文化人類学コースに進んでみると、思い描いていたものとは違いました。人のお話を聞きたくて入ったのですが、最初のころの授業では親族構造、政治体系などを扱った文化人類学の古典を読んで、機能主義や構造主義のような基本的な理論を学ばねばなりませんでした。そのときはそういった古典がよく理解できず、非常に辛く感じてしまいました。人間の社会を第三者の目線で分析するという文化人類学の一般的な姿勢が、上から目線にも思えました。

私自身にも変化がありました。学部時代は勉強よりサークルや恋愛のようなプライベートのほうが大事という人も多いと思いますが、そこで私もいろいろな悩みに直面しました。喋ることが得意だと思っていたのに、大学に入ってからそれまでに経験したことのない辛さを味わい、言いたいことをうまく喋れないと感じることもありました。そんな中で、「環境問題」のような大きな社会的課題よりも、どうしたら自分の身の周りの人の話をきちんと理解して、その人に寄り添うことができるのだろう、ということの方が私にとっては切実な問題になってきていたのです。

―筑豊炭田に興味を持ったきっかけは何ですか。

学部4年生のときに受けた民俗学の先生の授業で、名もなき普通の人たちの声を引き上げようとした運動として、『サークル村』という雑誌について学びました。この雑誌は1958年から61年まで刊行されており、当時九州の労働者の間で花開いていた文芸やコーラス、映画などといったサークル活動を統合しようとする文化創造運動としてとらえることができるものです。

その授業の受講者は少なく、先生の講義が一通り終わると1人ずつ発表することになりました。 私は『サークル村』の編集メンバーの1人である上野英信について発表することにしました。上野英信は実際に筑豊の炭鉱で働いていたこともある記録文学作家です。彼が「はなし」という概念にこだわり、文字が読めない人も少なくない筑豊の労働者が、子どもたちと一緒に簡単に読めるようなお話を作っていたと知り、興味を持ちました。発表にあたって彼の著書である『追われゆく坑夫たち』と『地の底の笑い話』を読んだところ、大変な衝撃を受けました。

『追われゆく坑夫たち』は1960年に出版された本です。当時の日本は、石炭から石油へのエネルギー政策の転換がなされている最中でした。筑豊は明治の一時期には日本の石炭生産の50%を占めたほど大規模な採炭地域なのですが、生産の合理化が難しい小規模な炭鉱も多く、それらは政策によって真っ先に閉山されていきました。ただでさえ炭鉱の労働は非常にきつく、特に零細な炭鉱は設備も劣悪だったのに、労働者たちはその仕事さえ奪われていったのです。この本の途中に、労働者たちが「わしは『下罪人』だから」と言い、それ以上何も語ってくれなかったという場面があります。彼らは何も声を上げることもなく、沈黙のまま消えていってしまったというのです。私はそのことを知らなかったし、炭鉱自体に興味も持っていなかったので、非常に衝撃を受けました。

自分もそのころ勉強や人間関係、就活などで悩んでいましたが、そういう次元ではなく、本当に苦しい思いをした人がいたことを知りました。ちょうどその前年に福島の原発事故が起きましたが、福島の原発からの電気が東京に供給されていることも、事故が起こるまで知りませんでした。あの事故のせいで故郷に帰れずにいる人もいれば、原発で働いて被曝してしまった人もいることも考えると、本当は自分にも関係があるはずなのに、全然違う世界に生きている気がして、自分への罪悪感のようなものがありました。『追われゆく坑夫たち』で描かれた世界には、これと重なるものを感じました。

もう一つの『地の底の笑い話』は『追われゆく坑夫たち』が出版されてから7年後の1967年に出版された本ですが、こちらは一転して、炭鉱労働者たちが自分たちの身の上を笑い話に託して語っているということを描いた本です。例えば炭鉱で事故死した人が幽霊になって出てくるというものや、“圧政”の炭鉱から逃げる「ケツワリ」をどのようにやり遂げたかといった話を笑い話として語っているのです。そんな笑い話の内容に私は笑えませんでした。何より、『追われゆく坑夫たち』と状況的にはそんなに変わっていないはずなのに、同じ筑豊の炭鉱に生きた人が沈黙ではなく笑い話として自分自身について語っていることがとても不思議でした。そして、ひょっとすると、炭鉱労働者の人たちの話を聞く側であり書く側でもある上野英信の捉え方の方に変化があるのかもしれないと思いました。他者について書くということは、人の話をちゃんと聞いて語り直すことだと思うのですが、どうすればそれができるのかという私が普段抱いている問いに対する答えが、そこにある気がしました。それ以来、筑豊の炭鉱に関する語りをテーマにして研究を続けています。


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