小宮山宏さん

2005年4月、東京大学の総長に就任した小宮山宏さん。「知識の構造化」などを打ち出し、世界の知の頂点に立つ大学を目指している。学生時代はアメリカンフットボール部に所属し、スポーツに打ち込んでいたが、スポーツをすること以上に大切なことがあったという。


小宮山宏さん

1.学生時代 | 2.東大の総長として


のんびりとしていた時代

僕は小さいときからスポーツが好きで、やっぱり文学青年というよりは運動青年だったと思う。戦後間もない頃だったから、当時の小学生はほとんど勉強をしなかった。小学生の頃、父兄の間では「先生は宿題を出すべきか」という議論もあったくらい。もちろん親は一生懸命だったとは思うけど、まだ塾なんてものはなかったんじゃないかな。今よりは、のんびりとしていた時代だったよ。

東京に来たのは三歳の頃だったんだけど、今の駒場キャンパスのあたりは格好の遊び場だった。小川が流れている野原といった感じで、そこでクラスの友達と遊んで野球ばかりしていた。サッカーなんて、まだあまり知られてなかったよ。

中学までは運動部はなかったから、高校に進学したら何か運動をしたいという思いが強かった。最初はバレーボール部に入ったんだけど、やっぱり背の高いやつにはかなわないってことが分かって、一週間でやめた。次に入ったのがラグビー部だったんだけど、今度は練習がきつくてやめようと思っていた。そしたら、キャプテンに「一回試合に出たら、面白くてしょうがなくなる」と言われて、試合に出させてもらった。ところが、スクラムに行くのが苦しくて苦しくて。もうこんな苦しいことは嫌だと思ってやめたんだ。

それで、高校1年の夏に野球部に入部した。野球自体ももちろん面白かったけど、やっぱり友達に出会えたのが一番大きかった。だけど、3年になるときに成績が下がってきて、先生から脅かされてやめた。最後まで続ける仲間がいる中で、途中でやめたわけだから、戦線離脱というか、裏切るというような思いがあった。当時としては一番悩んだことの一つだね。

早熟な学生ではなかった

高校最後の一年は、必死に受験勉強をやった。面白いもので、勉強は癖がつかないとできないんだ。やっぱり人間の癖って重要なんだよ。だから勉強の体制ができたのは、夏休みに入ったぐらいだった。夏休みに母親の実家にこもって、朝から晩まで一日中勉強をした。今思うと、あのとき一番力がついたんだと思う。それまでも、勉強をしなかったわけじゃないけど、なぜか調子が出なかったんだ。

東大を受けたのは、自然と言ったらいいのかもしれない。日本で一番いい大学だと言われていたし、入れそうだったから受けた。ただそれだけで、何も考えてなかったね。僕が通っていた都立戸山高校は、現役でも東大に10人から20人ぐらい入る進学校だったから、みんな東大に入りたいと思っていたと思うよ。

大学に入ること以外には、将来のことをあまり考えてなかった。小学校の頃、先生に「自分にしかできないことを、考えなさい」と言われて、本気で考えた。でも、そういうことを言われても困ったよ。野球をやっても僕より上手い子がいるし、歌を歌うにしてもそう。僕は真面目にそういうことを考えるほうだったから、強迫観念を感じたよ。だから、僕は将来のことを絶対に言わないし、自分の子どもに何になれとか言ったこともないと思う。

それでも、小学校6年のときに野口英世になりたいって書いたことがある。それは、母親が僕を医者にしたいと思っていたのが染み付いて、野口英世なんて読まされたから書いただけなんだ。だけども、中学校に行ってカエルの解剖をしても、こんな気持ち悪いことをやれるかと思った。先のことは見えてなかったよ。早熟な学生ではなかったんだ。

小宮山宏さん

スポーツという媒介を通して

野球をずっとやってきたから、大学に入ってからも野球を続けていきたいと思った。でもその頃、自分のスポーツの才能というものを考えた。とても野球でもって神宮に出るとこまでは、レギュラーになれないんじゃないかと思ったんだ。それで、当時まだマイナーで、試合に出られそうなアメリカンフットボール部に入った。入部したときは創部6年ぐらいで、2年ごろまでは十数校がアメフトをやっていた。今は関東だけでも百校以上でやってるから、そう考えるとまだマイナーだったんだ。

入部当初、関東大学リーグは二部制で、東大は二部の雄だったんだ。僕が3年のときに入れ替え戦で防衛大に勝って、4年は一部で試合をしたんだ。一部に昇格してから、連戦連敗。勝つ気でやって、コテンパンに負けて、それから負けっぱなしで四連敗ぐらいしたんじゃなかったかな。その後、明治大に勝ったんだ。最上級生だったこともあって、あれは生涯で一番うれしかったことの一つだね。

部活動をやっててよかったことは、一にも二にも友達だよ。友達ができたということと、その友達が違うことを学んでいるということが大事だね。文系の人もいるわけだし、理系の人もいるわけだ。工学部の中だって、建築に進んだ人とかいろんな人がいる。そういう分野の違う仲間とか、先輩とかと一緒に話をしたというのは大きかった。

スポーツは媒介だと思っているんだ。もちろんスポーツをやりたくてやったわけだけど、あとから考えてみるとそれは媒介だよ。だから、それはスポーツじゃなくてもいいし、何でもいいんだ。やっぱり、育った環境だとか、学んでいることが違う同世代の人たちと、本当に大事な話をすることだね。自分の悩みだの、恋愛の自慢話だの、そういうことを話していくということが、何よりも貴重だと思う。

何をやるか自分で決めること

今、工学の学部生は、7、8割が修士に進んでいると思うけど、僕らが学生だった頃は、まだ半分ぐらいしか修士に進まなかった時代だった。当時の人はあまり大学に残るなんていう意識はなかったと思う。僕もそういう意識はなくて、初めは学部を卒業して、どこか大きな会社に勤めるものだと自然に思っていたよ。

ただ、やっぱり卒論が面白くなっちゃったんだ。触媒反応の選択性という研究をしていたんだけど、触媒の粒子のサイズによって、化学反応の結果得られる物質の割合が変化するんだ。これが当時としても面白い実験結果だったんだけど、何よりその結果が理屈通りになるんだ。これにはもう感動したよ。やっぱり、先生が一緒にやってくれたのがよかったね。その先生も助教授で、若かったから。

研究って、何をやるか自分で決めてやるというところが一番苦しいところで、一番の醍醐味なんだよ。僕が人生をかけて悩んだのは、三十代の前半だよ。アメフトが終わって、卒論に浸り出してからは本当に勉強した。実は、勉強をするのはどこでもいいと思っているんだ。それが僕の場合には、高校3年の夏休みと、修士、博士のときだった。高校3年のときは、大学に入りたいからただ必死、修士になってからは、やっぱり必死ということもあったけど、何より勉強することが面白かった。


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