石川准さん

1.全盲初の東大生として | 2.障害学、支援工学


現在、静岡県立大学国際関係学部で教鞭を執っておられる石川准教授は1977年に初の全盲東大生として文科三類に入学し、当時はニュースでも取り上げられました。石川先生に東大受験や在学中のこと、そして現在のご専門である障害学や支援機器開発についてお話をうかがいました。

東大をいつ頃どのような理由で志すようになったのですか。

石川准さん

僕は、子供の時から弱視でした。さらに中学2年生になると網膜剥離という病気を発症して、目に衝撃を与えてはいけないと医者からいわれました。以来体育は絶対禁止になり、いつも見学していました。高校に入って、準備運動ぐらいできるのではと体育の先生からいわれて自分も見学は嫌だったので、危険は知っていましたが体育の授業に出るようになりました。しかし、すぐに失明してしまいました。2年間入院して、それから東京の教育大学付属盲学校に1年生から入り直しました。見えなくなってからは、いわば、ゼロからの出発というか、マイナスからの出発というかそういう認識でした。「見えない」ということは、何にもできない状態であって、未来に希望を持つということを考えにくかったんです。しかし、教育大学付属盲学校に入ってみると、カルチャーショックがありました。全盲の生徒たちは、非常に元気で、点字を猛烈なスピードで読んだり書いたりしているし、学校では杖とかを使わずに走ったりしているわけです。しかも、先輩たちは、雄弁で理路整然と様々な主張をしていて、「見えない=できない」ではないということを、強く理解しました。これが、出発点でした。そして、当時は、東京大学が視覚障害を持った高校生に点字での受験の門戸を開いて、まだ数年というときだったのですが、まだ、点字での東大合格者はいませんでした。そういうこともあって、東京大学受験にチャレンジしようと思いました。

もともと、数学が好きで、興味や特性が文系というよりは理系だったんですね。それで、高校3年生までは理系に行こうと思っていましたが、東京大学は、まだ理系については受け入れができないということで、高校3年生で文系志望に変えて、東京大学を受験しました。他大学で数学科の受験を認めてくれているところはあったので、東大以外の理系にするか東大の文系にするかで、ちょっと、高校生のときは迷いました。選択の仕方がいいかどうかは別として、結局、まだ点字受験では合格者が一人もいないということだったので、東大受験に挑戦しようと思いました。

文系の中でもなぜ三類を選んだのですか。

当時はまだインターネットなども無く、世の中の情報が、まったく入らない状況でした。そのような状況で、何となく、文三からだといろんな選択があって、いろいろな分野に行ける気がしていました。また、当時は法律にはそれほど興味はなかったし、経済は数式やグラフ、データなどを扱うのは大変だろうなと思って、はなはだ消極的な理由で文三になったって感じですね。

受験勉強の苦労は何かありましたか。

点訳された受験参考書や、問題集や予備校の模擬試験問題などが無くて苦労しました。数学などの参考書を使うときは母が読んでくれていました。母は数学が得意でしたが、数式を読むのは非常に根気のいる作業だったと思います。分数であれば、分子xxx、分母yyy、横に行ってzzzみたいに読みます。問題集は、ボランティアの人が点訳してくれたものがあったので、それを、何度も何度もやっていましたね。一般の生徒と比べると、参考書や問題集は圧倒的に足りなかったけれども、一つの問題集を繰り返しやっていました。

入学されてからはどうでしたか。

僕は3年間盲学校にいたわけですが、盲学校は、視覚障害を持った同級生ばかりなので、みんな同じ条件での仲間、ピアグループって感じで非常に楽なんですよね。しかし、大学に入った瞬間にすごいカルチャーショックがありました。東大の同級生は、自分に比べて明らかにいろんなことをよく知っていて、すごいギャップを感じました。彼らとの間に接点が見いだせなくて。僕は、3年間とにかく受験勉強だけをして、テストの成績だけ何とか追いついたけれども、ほかの人たちは、いろんな本を読んだり、映画を見たり、いろんな活動をしながら大学に合格してきているんじゃないか、っていう気がしました。だから、2年間ぐらいはすごく自信がなくて、静かでした。

コンピューターも、インターネットもない時代だったので、自分で能動的に情報を入手するというのは非常に難しかったのです。点字図書館というのがあって、そこにある文芸書とかは点字で読んだり録音テープを聞いたりしましたけれども、自分が勉強したいことだとか、知りたいことを能動的に勉強していくことは難しかったです。

最終的に、社会学へ進んだのはなぜですか。

はじめは、いろいろ迷っていたんです。法学部や社会哲学も考えたんです。しかし、それぞれに相談に行くと、「ここよりも、むこうの方がいいと思うよ」って、どこへ行っても言われた(笑)。だから、「それじゃあ、どこへもいけない」という感じがあったんですね。唯一、直接僕が習っていない先生だったんですけど、直井優先生という当時助教授だった先生から同級生を通して、「興味があるんだったら社会学へいらっしゃいよ」みたいなメッセージをもらったんです。それから、見田宗介先生の本を何冊か読んで、社会学っておもしろいかなって思うようになりました。自分が書いた本のなかでは見田宗介さんの本を読んで社会学へ行くことにしたって書いているんだけれども、直井先生の「ウエルカムだよ」みたいなメッセージが背中を押してくれたんじゃないかなと思います。でも、だからといって、直井ゼミに入ったかというとそうではなくて(笑)。直井先生は、社会統計学が専門で、データを扱うのが大変そうだと思ったので、直井ゼミには入りませんでした。

卒論はラベリング理論をテーマに書いたんですが、本当に文献を読むことができなかったから、今読むと、それこそ、顔から火が出るっていう卒論でしたね。まあ、全然読めない。読めないっていうか、自分で考えるだけで、資料を使わずに論文を書くっていうのは不可能なことだから、録音テープで何冊か本や論文などを読んだけれども、きわめて不十分でした。

なぜ研究職を目指すようになったのですか。

今は、「障害者雇用促進法」という法律があって、企業にも公的機関にも障害者雇用率というのがありますし、大学でも積極的に障害のある人を教職員として受け入れるという方向に変わっているけれども、今と30年以上昔は全然時代が違うので行き場がなかった。「目指す」と言えば、積極的な感じはするけれども……。そういう意味も半分はありました。あとの半分は、道を開いていくことができるとすれば研究職しかないだろうなと感じていた、ということです。つまり、いろんなことを、あれもこれもできるようにするのは難しいだろうから、ある一つの専門的な分野、これなら何とか競いあっていけるっていう専門職でやっていくしかないと思っていて、活路が開けるとしたら研究職しかないと思いました。

修士を出てから留学されたそうですが、留学先ではどのような体験をされましたか。

留学先は非常によかったです。自分がここにいることが、あたりまえ、そういう風に感じられました。アメリカの大学院には多様な人たちが大学にいました。留学生もいたし、若い人だけじゃなくてすごい年輩の大学院生もいました。日本は、当時は特にそうだけれども、同質的な集団で、自分だけが他の人たちから逸脱している感覚を感じることが多かったわけです。でも多様な人たちといると、自分が”one of them”だし、しかもひとりひとりが多様であるっていうのがふつうの状態であるということを体験しました。


1.全盲初の東大生として | 2.障害学、支援工学