樋渡啓祐さん

1.学生時代 | 2.市長になって


佐賀県武雄市市長の樋渡啓祐さんは、総務省の官僚を務め、全国最年少(当時)で市長になり、テレビドラマ「佐賀のがばいばあちゃん」のロケ誘致など地域活性化のために精力的に働いており、全国から注目を集めている。これまでの人生について学生時代と市長になってからを中心にお話を伺った。

東大に入るまで

樋渡啓祐さん

中学校は面白かったです。田舎の中学校だったこともありいろんな人がいて話していて楽しかったです。部活はバスケット部に入っていたのですが、しごきがあまりに理不尽で、あるとき「ふざけるな」って部長に掴みかからんばかりに抗議したら、「お前がふざけるな」って言われてやめさせられました(笑)。

そのあと元気をもてあまして、あまりよろしくないことをしていたので、担任の先生に何かの部活に入ってくれと言われて廃部寸前の卓球部に入れられました。水泳部を辞めた人とかバスケット部を辞めさせられた僕とかそういう人の集まりでしたから、夏の暑い時は体育館で卓球をせずに水泳部の手伝いに行くなど結構適当でした。でもやってみると結構面白くて、公民館でにわか練習をしたり、ランニングしたりしているうちに俄然熱中し、県大会まで行きました。

逆に高校は面白くなかったです。中学校と違って生徒が成績で区切られていて、均質だったので、様々な人がいる中学校のほうが面白かったです。それで引きこもり気味になって、あまり学校には行かなかった時期も。

高校2年生の時の武雄高校の創立記念日の記念講演にたまたま隣の西有田町(現・有田町)の町長さんの話を聞きました。その話が無類に面白かったです。身振り手振りを交えて、車いすマラソンや棚田ウォーキング、今でいうユニバーサルデザインのことなど、20数年前の当時としては、そして今でも通用する先進的なものを面白おかしく説明してくれたのです。

その人の話を聞いて、「僕も将来こんなふうになりたい」と漠然と思いました。しかしそれはずっと先、自分が50歳か60歳になった時だと思っていました。そこから人生を逆算して、そしてどうしたら良いかと考えて、じゃあ大学は国立が良いだろうと思いました。どこの大学が良いのか情報も無く判らなかったのですが、どうせ目指すなら一番がいいだろうと思い東大を受験しました。東京というのも魅力でしたね。もし、高校時代、東大の情報がたくさんあったら、気おくれして志望していなかったと思いますが、逆に、情報が無いのでのびのび勉強ができました。知らぬが仏、そして東大に運良く入れました。

モラトリアムとしての大学生活

樋渡啓祐さん

入学してすぐは、燃え尽きた状態になってしまいました。僕の高校では4年ぶりの東大合格者だったぐらいで、東大入学が自分にとってはハードルが異様に高かったこともその一因でしょう。挫折感と閉塞感がありましたね。周りは頭がよさそうだし、授業も面白くなかったですし。僕が学生のころはちょうどバブルで、僕は田舎から出てきたから、貧しかったとまでは言わないけれど、バブリーな人たちとの格差は感じました。今では考えられませんが、学内にフェラーリが3台も停まっていたりしましたから。

授業が面白くないというのは、僕らが学生だった頃つまり20年くらい前は、ベルリンの壁崩壊など世の中が大きく動いていて、高校や大学で習ったことと現実とがあまりに違う方向に行っていたので、先生の言っていることが違うんじゃないかって感じたからだったと思います。僕は文IIから経済学部に行ったので経済を例にとると、マルクス経済とテレビで見ることが全然違っていたわけです。そういうわけで最初は完全な燃え尽き青年で、引きこもり気味になって、床ずれができるんじゃないかっていうぐらい家で寝てばかりいました。

でも東大に行って良かったことは、努力してもかなわない世界がここにあるのだということに気付いたことです。高校までは努力すれば何とかなると思っていました。でも、大学に行っている時に、ノーベル賞級の頭いい人がすごく沢山いますから、そのことに気付きました。

転機となったNHKの集金アルバイト

そんな大学生活の転機となったのが、NHKの集金のアルバイトです。駒場キャンパスで募集のビラをたまたまもらって、直感的に面白そうだなと思って始めました。やってみると面白かったです。なぜかというと、ただお金下さいって行くわけじゃなくて、やはりいかにお金を引き出すかという作戦があるわけですよ。だからそこで戦略とそれに基づく戦術、交渉術というのを学びましたね。どうすれば短い時間にお金が稼げるか、また、お金を払う人に納得してもらえるかを考えて。その時にビジネスの要諦を学んだ気がします。

また人と話すのが楽しくなりましたね。集金に行った先や職場でいろんな人たちと話しました。そして結構お金がたまったのです。当時NHKの集金バイトをしていた学生は、早稲田や慶応など他の大学の人も含めて200人ぐらいいました。その中で僕はずっとトップでした。さまざま工夫をして作戦を立て、それでやればできるんだなって再確認できました。たまったお金は、本やCDあるいはライブにつぎ込んでいました。僕はクラシックが好きだから、コンサートにも積極的に行きました。そうして生の音楽に触れていると、今まで知らなかった新しい世界があることに気付かされたのです。

世界が自分のキャンパス

それで、じゃあそうやって知った新しい世界を直に感じたいと思って、一念発起して世界20カ国ぐらいを巡る旅に出たのが大学の後半です。だからほとんどキャンパスにはいませんでしたね(笑)。僕のキャンパスは世界だって思っていましたから。

旅行した先で心に残っているのはイタリアです。ある時イタリアのシエナという都市の近くの貧しい街に行きました。日本人は初めてだと言われました。そこでアッと思ったのは、みんな人生を楽しんでいるということです。身なりは貧しいのですが、家族や地域の人と楽しんでいるのです。

樋渡啓祐さん

町の真ん中にカンポという名の広場があり、周りに教会や床屋やカフェのような店が並んでいたり、集会所があったりします。はじめ4時ぐらいにそこに行った時には誰もいなくて、「さびしい街だな」と思ったのですが、夕方になるとどんどん人が集まってダンスが始まり、一方ではチェスをやっていて、いきなり縁日みたいになりました。面白い人生模様をみることができました。映画でいうと、「ニュー・シネマ・パラダイス」(日本では1989年に初公開)のワンシーンみたいでした。彼ら彼女らは、決して物質的に豊かではありません。しかし食べ物を持ち寄ったり、僕みたいなファーストジャパニーズを「おいで」と連れて行ってくれたりしました。しかも僕を泊めてくれました。家族の一員のおねえちゃんがかわいくて、彼氏がいると言っていましたけど、彼氏がいなかったらその場で求愛していたかもしれません(笑)。家族みたいに親切にしてくれました。

居心地も良いし、なかなか立ち去るタイミングがつかめなくて、お世話になった家族は、別れるときは泣いてくれました。そこで人のつながりとか絆とかを学びました。そして精神的に豊かなことは物質的に豊かなことよりも高次だなと思いました。それを大学の時に感じられたっていうことはとても大きかったです。自分で入っていって体験したことが、その一瞬が何万冊の本を読むよりも僕にとっては価値がありました。まちづくりで大切なのは気持ちだと思いました。その人たちは自分たち、そして自分たちの生まれた街を誇りに思っていると言っていましたから。

でも日本は全然違うでしょう。物質的には豊かでも、人の悪口言ったり人の足引っ張ったりっていうのは武雄市みたいな田舎でもやっぱりあるんですよ。それは教育のせいでもないと思います。イタリアの教育はめちゃくちゃでしたから。それとはちょっと違うと思います。地域のつながりっていうのは大事ですよね。昔は行儀の悪い子がいると地域のおっちゃんが注意したり指導したりしていたけれど、今はそういうのが体罰とか言われてなくなって、孤立していますよね。

旅に出る前は、東大に入ってちやほやされて、自分は凄いなと思っていました。しかし世界を旅した時に、「東大は北京大学の横か」なんて言われるんです。完全にone of themだと思いましたね。だから日本が一番ではないなというのは世界を旅している時に気付きました。そこで相対化ができましたね。

大学生活を振り返って

本当に、前半と後半はえらい違いですね。前半は燃え尽きて、偶然始めたNHKの集金バイトをきっかけに後半ははじけちゃって、その反動がすごかったです。それまで持っていた自信を失った大学時代。頭いいやつは沢山いますし、お金持ちはいくらでもいますし、格好良い人もいくらでもいます。しかし、 NHKの集金バイトで頑張ってずっと一番になって、やればできるんだと再度思いました。それが新しい自信になりました。だから偶然を掴むというのはすごく大事なんだと思います。僕が最年少で市長になったのも、やはりその時々に掴んできているからですね。それを最初に学んだのもまた大学時代でした。

4年間はあっという間でした。だから今思うのは、もうちょっと学生やっていれば良かったということです。大学は4年間しかないでしょう。もうあと 2、3年の学生をしとけば良かったと思います。学生時代はモラトリアムですから。社会人になった今なら分かるのですが、社会人になると自由に使える時間がほとんどないのです。だから学生時代にもっとこうしておけば良かったと思うこともいろいろあります。そういう意味では4年間はもったいなかったですね。

キャリアになって

高校の時に抱いた首長になるという夢をかなえるには、今でいう総務省にあたる総務庁に入るのが良いだろうと考えて、大学卒業後は総務庁に入りました。キャリアだったので駆け出しの時からいろいろ大きな仕事をさせてもらえました。総務庁に入って以来、左遷や栄転を繰り返しましたが、その中で、出向先の内閣官房ではとても一人ではできない仕事を経験しました。それとチームでやった時の達成感を味わいました。今「官僚たちの夏」ってドラマやっていますよね(※取材時は2009年8月)。全部がああだとは言わないけど、雰囲気はあのままなのです。法案通した時などやはり泣けましたね。大の大人が泣いていたんですよ。その達成感や充実感が次また人のためにやろうっていう気にさせてくれますし、自信となるんです。

その繰り返しで、出向して大阪府高槻市の市長公室長(企画広報部長)のときは隣の吹田市から関西大学の誘致にも成功しました。幼稚園から大学院まで丸ごと誘致しようというすさまじい構想を立て、それに沿って、今もう出来上がりつつあります。あとはそんなふうに結構いろいろなところでバリバリやっていました。そういうわけで関西弁を話せない公務員として向こうではちょっとした有名人でした。このときも市役所の仲間に恵まれました。今でも付き合いが続いています。


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