中野香織さん

1.「大学時代」 | 2.「服飾史家」


ひょんなきっかけから『英和ファッション用語辞典』が手元に転がってきた。見れば、日本経済新聞に長らく連載されていたエッセイ「モードの方程式」の著者が監修しているという。今回はその著者である中野香織さんにお話を伺った。

どのような高校時代を送られていましたか?

中野香織さん

本が好きでしたね。近くに県立図書館があって、高校時代までに開架の本はほとんど制覇しました。富山の高校だったので、東京のように誘惑がなくて、健全に過ごせたかなという感じです。自慢できるような悪行があるわけでもないです。

本が好きだったためか、作文も得意でした。高校2年のときに、数学者の広中平祐さんが審査員をつとめていた読売新聞主催の作文コンテストに入賞して、その頃から「ものを書く仕事をやりたいな」という考えをぼんやりとは持っていました。そのコンテストで新聞のインタビューを受けたときは理数科にいて理科三類を目指していたものですから、「将来は女医さん」と記事になったこともあるんですけれども、結局最後のぎりぎりの段階――共通一次(編註:現行のセンター試験に相当)を終えた段階で、「やっぱりこのまま理数系に行くのはどうかな」と初めて疑問が芽生えて、文科三類に入学しました。

高校時代は理数系の勉強を特にしていたのですが、それが無駄になったかというとそうではなく、数学を証明するときにエレガントに決めようと思ったら、本質をつかみとって無駄なことをバシッと省かなきゃいけない。そういう考え方が鍛えられたおかげで、文章を書くとき、「どうしたらエレガントにまとまるか」というのを頭の中にイメージできています。

大学でどのように過ごされていましたか?

中野香織さん

今日この取材の話を受けてから、もう一度自分の履歴を確認してきたんですけど、私は結局トータル12年東大にいたんですよ。文三に入って、お医者さんになろうと思っていたのがころっと変わったのもあって、しばらくぼーっと何をやりたいか分からない状態が続いたんです。 そんな中、大学2年生のときに、バブルの頃だったからか、旅行雑誌がメキシコの旅をレポートする女子大生を募集していたんです。条件が「スペイン語ができること」と書いてあったのですが、習い始めたばかりでほとんど話せなかったのに、「できます」って言って(笑)応募したら、通っちゃって、メキシコに連れていってもらったんですよ。その旅レポートの仕事をしたのが始まりで、誌面を読んでくださった他の媒体の方が、「書いてみないか」と次の機会をくださる、という連鎖が続き、在学中からそんな風にアルバイトのような形でもの書き業を始めたんですね。

だから、進振りなんて全然良い点数ではなく、文学部進学後もあまり勉強せず、先生も学生は自主的に勉強するものだという考え方を貫かれていましたから、ほとんど学内では放置されていました(笑)。 こんなんでいいのかなと迷いつつも、就職活動を一応したのですが、内定をもらったところが、女性というだけで男性よりもお給料が低くて、しかも女性だけ制服着用だとかいう規定のあるところだったのですね。そういうことを内定後に知ったんです。今だったらとてもそんな贅沢は言えないんでしょうけど、当時は「そんなこと聞いていない」という感じで。たぶん私の事前調査が足りなかったのでしょうね。いずれにせよ、その段階でようやく、真剣に進路を考えたいという気持ちがでてきて、それで教養学部地域文化研究専攻イギリス科に学士入学したんですね。そこから本格的に勉強をし始めました。

本来ならその時点で大学院を受けるのが普通なんですけど、その学力が自分には到底ないと思ったので、基本的なところからやろうと思い、教養学部のイギリス科に行きました。そこで徹底的に英文の読み方や歴史、政治や経済といった教養、ものの見方を鍛えられたという感じですね。

その後、修士2年、博士課程が3年で、途中ケンブリッジに留学したりなんだりあって、東大在学実質11年、なんだかんだと入れたら12年後に東大を出ていたという具合で、あとから振り返ってみると、モラトリアムがとても長かったです。ちょっとした干支ひと廻り分です(笑)。

12年間、学業の傍ら文筆業もずっとやっていて、大学院に入ってからは映画のことも書き始めました。映画のことは“え”の字も知らなかったんですけれども、「映画コラムの連載を始めてみないか」とオファーしてくださった媒体があって、じゃあと見始めて、真剣に1年間300本くらいのペースで見ていた時期がありましたね。蓮實重彦先生がちょうど映画論の授業を持っていらしたので、それを聞きつつ。ファッションの“ファ”の字も関係ないことをやっていました。

中野香織さん

結局、ファッションに関わるようになったのは修士の終盤です。大学院では英語をはじめ、イギリスの文化、政治、経済、歴史、文学といったいろんな分野の第一人者の先生方からエッセンスを吸収したのですが、そこからどういう自分のオリジナリティを出していくかということが修士論文で問われるんですよね。そこで自分では何ができるか考えたときに、悩むことになったんです。たとえば歴史や文学を研究しようとしてもすごく層が厚くて、いつまでたっても雲の上が見えそうにない。どうしようかなと思って、いろいろな本を読んだり、自分の仕事のことを考えたりしている中で、隙間だなと気付いたのが、イギリスの男性服であるスーツですね。スーツについて研究している人がいないということに気付き、「研究テーマとして良いじゃん」と思って(笑)、それで男性のスーツの起源とイギリスの階級社会・階級意識の関係を手探りで調べ始めました。誰も扱っていない分野だからということで力を入れたのが運の尽きというか(笑)、始まりというか、これがきっかけでファッションに関わるようになりました。

修士論文は、OKを出してくれた先生もいたんですけど、8割くらいの先生が嘲笑ないし失笑でした。「こんなことをやったって、女子大の被服学科とか美大とかだったら良いけれど、正統派のアカデミズムでファッションのように軽薄なことは馴染まない」と露骨におっしゃる方が結構いました。でも、少し引いて考えてみるに、もちろん傷ついてはいるんですけど、その頃はジャック・デリダのデコンストラクション(脱構築)とか哲学の分野でのポスト・モダニズムをやっていないと学者じゃないと思われていたのですが、今誰もやっていないじゃないですか。一番流行に弱いのはこの人たちじゃないかな、とちょっと思ったりして。それで、私はアカデミズムでやっていけなくとも、文筆業で細々としのいでいこうかなという楽観もあって、そこは「はいはい」と傷つきながらも聞き流し、きっといつかはチャンスがあるだろうと考えました。

やはり懸命にやっていると見てくれる方が必ずいるもので、手を差し伸べてくださる方もいて、それがアメリカ文学の柴田元幸先生でした。直接は授業を取ったことはなかったんですけれども、博士課程でティーチング・アシスタントをやっていたこともあって、こんな本を訳してみる気はありますか、と”Sex and Suits”という――日本語のタイトルは『性とスーツ』になったのですが――本をポンと渡してくださいました。自信はなかったのですが、こういうチャンスはありがたく受け取るべきだと「はい、やります」と受けて、3年がかりで訳しました。その本を見てくださったメンズファッション誌の関係者がいて、仕事をやってみませんかと声をかけてくださり、そこからどんどんメンズファッションに関わる仕事も増えていき、文筆業の比率が大きくなっていきました。駒場で英語の非常勤講師はしていたのですが、子育ても一番大変な時だったこともあり、すべてを立てることがどうにも不可能となった時点で、大学の仕事からは離れました。


1.「大学時代」 | 2.「服飾史家」