土屋賢二さん

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哲学に興味はあるけど、生涯をかけて哲学に取り組むとはどういうことなのかあまり想像できないという人は多いと思います。かくいう私もその一人。というわけで今回は、文科一類から文学部哲学科に進学し、その後もお茶の水女子大学哲学科教授として哲学を続けられた土屋賢二さんにお話を伺いました。

文科一類を受験された理由を教えてください。

土屋賢二さん

ぼくは両親とも小学校しか出ていなかったんですけど、その親に言わせると学者なんてまともな生活ができないと馬鹿にしていたんですよ。そんな親の価値観や当時の風潮では、とにかく官僚が偉いと言われていたんです。それで、官僚になるには東大の法学部がすごく有利だった。実際、東大法学部の威力っていうのはすごかったんです。ぼくの友達が交通違反で「免許証見せろ」って言われたとき、「ぼくは今東大の法学部で、卒業したら警察庁に就職する予定です」とか言ったら「あ、じゃあ頑張ってね」って免除されたくらい。ぼくは高校時代、社会の仕組みも官僚の仕事も何も分かってなかったんですけど、なんとなくここがいいんだろうなって思って文科一類に行ったんです、法学部に行こうと思って。

文科一類で入られたあと、どういう経緯で哲学に進まれたんですか。

ぼく、高校までは勉強は授業中に全部済ませるっていうやり方をしてたんですよ。家に帰ったらぼんやりしたり、友達と遊んだりしてたんです。それで大学に入って、周りにいろんな本があるのに読んだことがないから、何か読まなきゃいけないと思いました。文学は読んでおかないと恥ずかしいなって思って、外国の文学を読んだんです。そして、ドストエフスキーっていうロシアの小説家にものすごくはまったんですよ。それにはいろいろ理由があるんですけど、ひとつには、文章がすごくツボにはまったんですね。たたみかけるような文章で、それをしつこいって感じる人もいるんですけど、ぼくにはちょうどよくて、すごいなって思った。初期の頃の恋愛小説はほんとにどきどきするような書き方だし、喜劇的な小説もむちゃくちゃ面白いんですよ。その文章力の虜になったっていうのと、もうひとつは、価値観をひっくり返すようなことばかり書いてあることです。ぼくは高校まで何も考えてなかったので、世間的な、常識的な価値観をそのまま受け入れてたんですけど、ドストエフスキーの小説では登場人物がそれに全く合わないようなむちゃくちゃをする。それにはまったんです。

それで、そういう話を読んで、今まで自分が従ってきたような価値観でいいのかなって疑問がわいてきたんですよね。それまで自分は官僚になっていい暮らしをして、天下りをして、とにかく一生安泰だなって思っていたんだけども、それのどこがいいのか段々分からなくなった。自分のもってる価値観がそこでほとんど壊れてしまったんです。まあみんなそうだと思うんですけど、若いときってそういうふうになりやすいんです。それでいったん世間的っていうか、大人の価値観を疑いだすと、もうとことん疑えてきてどれも間違ってるように思えてくるんですね。それ以外にも大学生活のいろんなところで価値観が崩壊してしまうような出来事がいろいろあって、何がいいのか、何を目指せばいいのか、どうすれば満足できる一生が送れるのか分からなくなった。それで、それを考えるのは何だと思ったら、哲学だと。それで哲学書を読んで勉強しようと思ったんですよ。

そういうとき、授業で先生が『存在と時間』という本を書いた人がいるという話をしたんです。ハイデガーっていう人がそういう本を書いたっていうのを聞いて、「存在」と「時間」っていう組み合わせがものすごく神秘的に思えたんですよ。「存在」と「時間」でどんなことが考えられるんだろうって、思うでしょう?しかもそれ、日本語の訳で当時3冊くらい出てたんですけど、未完なんですよ。それだけあってまだ未完って、「存在」と「時間」についてそんなに書くことがあるのかと、どんなこと考えてるんだろうと思って1冊買って読んだら、最初からまったく分かんないんですよ。哲学用語の出てこない行なら分かるんですけど、それ以外は全然分かんないんです。それで、こんなのはいくら考えても分からないと、これは本格的にちゃんと勉強しなきゃいけないと思ったんです。

それと、「存在と時間」っていうテーマが、この人生の中でそれまでは考えもしなかったような組み合わせで、内容がまったく想像できなかったんですよ。そんなことがこの人生の中にあるっていうことが信じられなかった。ほかのことでも知らないことはいっぱいありますけど、まあなんとなくこうじゃないかってある程度は見当はつくじゃないですか。でも「存在と時間」っていうのは自分の理解を絶してて、なおかつものすごく深淵そうなんですよね。そういうことをほったらかしにしてただ有利な生活を選ぶことはできないと思ったんです。自分の全く理解できない深遠そうなものがあって、それについてものすごくたくさんページを使って書いてる人がいると。それがどういう世界か知りたいと思って、哲学にいったんです。

それで、まずドイツ語から勉強したんです。それまでフランス語だったので。最初に本を買ってきてドイツ語を勉強して、『存在と時間』を1ページずついろんな研究書を見ながら読んでいったんですけど、哲学科に行ったからって先生が「これはこういう意味だよ」って教えてくれるわけじゃなかったんですね。それに、その本自体が全然取り上げられなかったので、結局自分で勉強するしかなかった。その頃は1日朝から晩まで読んでやっと1ページ進むかっていうくらいなんですよ。あと、後になって思い返してみると、そのときの理解は全部間違ってたなって思います。そんなもんなんです。後先考えずに学部の間はその調子でずっと勉強してたんですけど、それでも『存在と時間』もほんの一部分しか読めなくて、それでは不十分で全然分かんなかったから大学院へ行ったんですね。

哲学みたいな学問ってつぶしがきかないし就職も運任せなんですけど、ぼくは運よく博士課程に行った後東大の助手をして、お茶の水女子大学に就職しました。お茶大に赴任したころっていうのも、ハイデガーのその当時出ていたものはだいたい読んだんですけど、まだハイデガーを完全に分かったって気がしなかった。でもずっと勉強して、始めてから十年くらいかかって、だいたいハイデガーの考えていることは分かったんですよ。でも、こういうことだったらぼくの求めていたものとは違うっていうことが、10年経ってから分かったんですよね。だから10年間の血のにじむような勉強は無駄だったんですね。

それから、今度はアリストテレスの研究をしたんです。アリストテレスって何を問題にしてるかははっきり分かるんですけど、答えの中身がよく分からない。十五年かかって、あるときアリストテレスの答えの意味が分かったんです。「あ、これが答えなんだ」っていうのが。それで考えると、確かにそれ以外に答えは無いなっていうのがぼくに分かったので、そのときはものすごく嬉しかったですよ。自分が期待もしてなかったような方向に答えが見つかったので。そのときくらい嬉しかったことはないですね。

それから、そういえばヴィトゲンシュタインも同じようなことを言ってたなっていうのを思って、ヴィトゲンシュタインもまた面白くなったんです。今度はいつも大きい辞書を鞄に入れて、喫茶店に行ってもそれを読んでいつも興奮してたんですよね。学生の頃も読んでたんですけども、何が面白いんだか全然分からなかったんですよ。なんでこんなことを言うのかっていうのがよく分からなくて。ヴィトゲンシュタインってあまり専門用語使わないので、一応読めることは読めるんです。だけどそれによって哲学のどんな問題をどんなふうに解決しようとしてるのかっていうのが分からなかった。でもアリストテレスが分かってから読むと、なんかいちいちうなずけるんですよね。それでものすごく興奮して、ヴィトゲンシュタインって考えられないくらい頭いいなって思って。読んだ人が思いつくような疑問とか反論を予期したように書いてあるんです。だから、いちいち考えながら読まないと面白くない。何も考えないで読んだら、まあすらすら読めますけど、結局何のことだったか分からないっていう結果になるんです。でも「これはおかしいんじゃないか」とか「こういうふうに考えたらこの場合はどうするのか」とかいう疑問をもちながら読むとすごくよく分かるし、しかも普通考えつくような疑問以上の疑問をヴィトゲンシュタインが自ら考えてそれに答えてるから、一文一文が読んでてすごく面白いんですよ。その頃は一番「哲学っていうのはこんなに面白いのか」って思いましたね。


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