東大生の墓所探訪


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南原繁@多磨霊園

南原繁の墓

南原繁の墓

緑に囲まれたお墓がありました。香川県出身で、東京大学第15代総長を務めた南原繁のお墓でした。

南原繁は東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、哲学の講義でプラトンに深く共鳴して哲学に興味をよせ、政治哲学者になることを決意します。卒業後は内務省に入省して実務経験を積みました。退職して後の1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部の助教授を務め、政治学史を教える傍ら、政治哲学の研究に打ち込みました。1925年に教授に、1945年(昭和20年)3月に東京帝国大学法学部長に、そして同年12月に総長になります。

任期中には、東京大学出版会を設立し、初代会長となりました。東京大学出版会は、現在東京大学に入学すればお世話になる前期課程1年の英語I」の教科書など、数多くの書籍を出版しています。

総長を離任する際に南原繁は「真理は最後の勝利者である」とのメッセージを残しているそうです。真理を探求し続け高い理想を掲げて現実と闘った南原繁の生き様があらわれていると思いました。

担当: 富川恵美 *

西田幾多郎@東慶寺

西田幾多郎の墓

西田幾多郎の墓

京都に「哲学の道」と呼ばれる道があります。琵琶湖疏水沿いの静かな散歩道なのですが、この道が「哲学の道」と呼ばれるようになったのは、日本を代表する哲学者、西田幾多郎がこの道を散策していたことによります。

西田幾多郎は、1870年(明治3年)、現在の石川県かほく市に生まれます。石川県師範学校予備科、第四高等中学校を経て、帝国大学文科大学哲学科に選科生として入学します。しかし、当時は選科生に対する待遇は決して良くはなかったようで、その頃の生活については彼の随筆などで読むことができます。彼がその後京都で暮らし続けたのは、この頃の経験があってのことなのかもしれません。

帝国大学卒業後は故郷に帰って中学教師となり、思索に耽るようになります。その後、1909年(明治42年)から大学でも教鞭をとるようになり、1913年(大正2年)には京都帝国大学文科大学の教授に就任しています。

1911年(明治44年)に、それまでの思索をまとめた『善の研究』を発表し、その独創性は衝撃をもって迎えられました。彼の哲学体系は「西田体系」と呼ばれ、日本の思想界に大きな影響を与えたといいます。

その後、1928年(昭和3年)に京都帝国大学を定年退官するまで彼は京都で暮らしました。晩年は春と秋は京都で、夏と冬は鎌倉で過ごし、1945 年(昭和20年)6月、鎌倉にてその生涯を終えました。遺骨は故郷の石川、彼の哲学を発展させた京都、そして終焉の地鎌倉に分骨されています。

担当: 金井雄太 *

東慶寺

東慶寺

仁科芳雄@多磨霊園

仁科芳雄の墓

仁科芳雄の墓

仁科芳雄の墓

仁科芳雄の墓

湯川秀樹、朝永振一郎といえば言わずと知れたノーベル賞受賞者ですが、彼らには共通の師といえる人物がいました。「日本の現代物理学の父」とも呼ばれ、第二次世界大戦期の日本に当時物理学の新領域と目されていた量子力学の研究拠点を築くべく尽力した物理学者、仁科芳雄です。

1890年(明治23年)、岡山県に生まれた仁科は、1914年(大正3年)に東京帝国大学工科大学電気工学科に入学、首席でこれを卒業後すぐに理化学研究所の研究生となります。1921年(大正10年)にヨーロッパへ留学に赴き、そこでニールス・ボーアの講演を聴いて興味を抱き、素粒子・原子物理学の道を進み始めました。当初の予定を延長してボーアの研究室に籍を置き、1928年(昭和3年)に帰国するまで研究に没頭します。

帰国後は理研で最先端の物理学研究に邁進し、仁科研究室を設立しました。1937年(昭和12年)には国内初、世界でも2番目となる小型の円形加速器(サイクロトロン)を完成させます。戦後、GHQの命令により当時の加速器は破棄されてしまいましたが、仁科の研究と情熱は失われることなく後進に受け継がれ、日本の現代物理学における多大な成果へとつながりました。

1951年(昭和26年)、60歳で永眠しました。多磨霊園にある墓の隣にはのちに弟子の朝永振一郎も埋葬され、ともに静かに眠っています。

担当: 松澤有 *

藤原咲平@多磨霊園

藤原咲平の墓

藤原咲平の墓

台風が2つ存在したらどうなると思いますか。この答えを出したのは、藤原咲平(ふじはら・さくへい)、長野県出身の気象学者です。「藤原の効果」といって、2つの台風が干渉しあって複雑な動きをするそうです。

1909年(明治42年)に東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業して中央気象台に入り、天気予報の研究を始めます。中央気象台(現・気象庁)で天気予報を担当しながらも東大理学部教授を兼任し、気象の幅広い分野で独創的な研究を行いました。1941年(昭和16年)に第5代中央気象台長に就任しますが、1947年(昭和22年)軍の嘱託で風船爆弾の研究に携わったことが原因で公職追放されます。退職後は『雲をつかむ話』などの一般向けの本の執筆活動に専念して気象学を普及させ、「お天気博士」の愛称で親しまれました。

また藤原咲平はドイツが発祥の地と言われるグライダーを日本に伝えた人としても知られています。ヨーロッパ留学中に立ち寄ったドイツでグライダーの飛行を見て、長野県の霧ヶ峰が適していることを知り、1932年(昭和7年)自ら会長となって霧ヶ峰グライダー研究会を設立しました。霧ヶ峰には藤原咲平の詠んだ歌「草に臥て/青空見れば/天と地と/我との外に何物もなし」が刻まれた記念碑と胸像があります。

1950年(昭和25年)65歳で亡くなり、現在は多磨霊園に眠っています。

担当: 富川恵美 *

星新一@青山霊園

「ショートショートの神様」と呼ばれ、SF作家の「御三家」の一人に数えられる星新一の名を知らない日本人は少ないでしょう。

彼は1926年(大正15年)の9月6日に、星製薬創業者の星一、精夫妻の長男として生まれました。本名は親一で一のモットーである「親切第一」の略だそうです。

1950年(昭和25年)の3月には東京大学大学院農学部発酵生産学教室の前期を修了し、その後、星製薬株式会社の取締役社長・副社長を経験しています。これだけでもすごい経歴ですね。

1957年(昭和32年)に『宇宙塵』で発表した『セキストラ』が『宝石』に転載されたことで商業誌デビューを果たし、宇宙開発時代の流れに乗って名を上げていきました。

作風から想像するのは難しいですが、「奇行の主」と呼ばれるほど奇想天外な発言を連発するような人物だったそうです。

またその一方で原稿を締め切り3日前には仕上げるなどマナーや礼儀作法に厳しい側面もあったようで気難しいという印象もしばしば与えていました。

そんな破天荒な人生を送った彼も今は父の一と一緒に安らかに眠っています。

担当: 養田直倫 *

丸山真男@多磨霊園

丸山真男の墓

丸山真男の墓

1914年(大正3年)大阪府大阪市でジャーナリストの丸山幹治の次男として丸山真男は生まれました。1934年(昭和9年)に東京帝国大学法学部に入学し、在学中に執筆した論文「政治学に於ける国家の概念」が認められて助手となりました。当時は主流だった皇国史観に基づく日本政治思想史を科学的視点による学問として丸山真男は研究し始めました。1944年(昭和19年)に大日本帝国陸軍二等兵として召集され朝鮮半島に派遣され、また、翌年には再度召集を受けて広島へと送り込まれました。この二つの戦時体験により丸山真男は戦後、ファシズムや軍国主義に関する論考を書いた『超国家主義の論理と心理』を発表し戦後社会に衝撃を与えました。以後、戦後民主主義の指導的役割を果しました。1950年(昭和25年)には東京大学法学部教授に任命されましたが学生の糾弾にあい1971年(昭和46年)に辞職しました。そして1996年(平成8年)に死去しました。

東京都府中市にある多磨霊園に丸山真男は埋葬されました。その墓は「丸山家之墓」と書かれている通りに父の幹治、兄の鉄雄、弟の邦男も納められています。

現在では高校の現代文の教科書に掲載されている評論『「である」ことと「する」こと』によって親しまれています。

担当: 牧祥子 *


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