東大生の墓所探訪


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三島由紀夫@多磨霊園

三島由紀夫の墓

三島由紀夫の墓

その死に様において、三島由紀夫ほど人々に与えた衝撃の大きい人物はそう多くはいないでしょう。

早熟の天才として知られ10代の頃から意欲的に創作活動に携わった三島は、1947年(昭和22年)に東京大学法学部を卒業し、2年後の1949年(昭和24年)、長編小説『仮面の告白』で一大センセーションを巻き起こし、作家としての地位を確立しました。その後も精力的かつ多方面に活動し、 1960年代になると翻訳を介して作品が世界的な評価を得て、ノーベル文学賞候補と目されるまでになります。

一方で戦後日本の体制や憲法に疑問を抱き、民兵組織による国土防衛を構想していました。1968年(昭和43年)には民兵組織「楯の会」を結成、その活動・創作の方向性は政治的なものへとシフトしていきます。そして1970年(昭和45年)、自らライフワークと位置付けた四部作小説『豊饒の海』を脱稿して、楯の会メンバー4名とともに市ヶ谷駐屯地内(当時)の陸上自衛隊東部方面総監部総監室を訪問しました。談話中の隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城、バルコニーから檄文を撒き、自衛官達や詰めかけたマスコミの取材陣に向けて自衛隊決起・クーデターを促す演説をします。しかし応じる者はなく、三島は総監室で割腹自殺を遂げました。世に言う「三島事件」です。

墓は多磨霊園にあり、命日の11月25日は「憂国忌」と呼ばれ、三島を偲ぶ集いが行われます。21世紀に入ってもなお論争の対象であり続ける戦後日本の在り方を命を賭して憂えた三島は、まさに憂国の士という言葉が相応しい人物と言えるでしょう。

担当: 松澤有 *

森鴎外@禅林寺

森鴎外の墓

森鴎外の墓

森鴎外の墓

森鴎外の墓

1862年(文久2年)に石見国津和野藩の御典医の長男として森鴎外(本名 森林太郎(もり・りんたろう))は生まれました。第一大学区医学校(現・東京大学医学部)を史上最年少の19歳という年齢で卒業し、東京陸軍病院に勤務した後1884年(明治17年)にドイツへ留学しました。ドイツでは医学研究をする他にも西洋の哲学や文学に触れ多大な影響を受けました。

帰国後、文芸雑誌『しがらみ草紙』の創刊や海外文学『即興詩人』『ファウスト』などの翻訳、小説『舞姫』の発表など積極的に啓蒙的文筆活動を行いました。日清戦争や日露戦争で軍医として活躍する一方で、文学者としては1912年(大正元年)の乃木希典の殉死をきっかけに歴史小説へと進んでいきました。これによって現在でも有名な『阿部一族』や『高瀬舟』などが書かれました。1922年(大正11年)、鴎外は肺結核のため亡くなりました。

鴎外は東京都三鷹市にある禅林寺に埋葬されました。禅林寺では山門を入って少し歩くと鴎外遺言碑があり、碑には「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という有名な遺言が彫られていました。奥へと進むと「森林太郎」と書かれた墓があり、きれいに整えられいてお花が飾られていました。

鴎外の作品は本、映画、ドラマや教科書など多くの媒体を通して知られています。このように時代を超えて親しまれている森鴎外の一生を感じながらお墓を訪れてみるのもいいかもしれません。

担当: 牧祥子 *

矢内原忠雄@多磨霊園

矢内原忠雄の墓

矢内原忠雄の墓

駒場キャンパスには「矢内原公園」と名づけられた小公園があります。数理科学研究科棟と駒場図書館との間、遊歩道が木立の中を通る閑静な場所です。この名前の由来となった人物が、かつて東京大学総長を務めた経済学者、矢内原忠雄です。

矢内原忠雄は1893年(明治26年)、愛媛県越智郡富田村(現・愛媛県今治市)に医師の子として生まれました。旧制第一高等学校在学中よりキリスト教を深く信仰し、東京帝国大学法科大学入学後は吉野作造や新渡戸稲造の影響を受け、自身の思想を確立させたといいます。1920年(大正9年)、植民政策を講じていた新渡戸の後任として東大経済学部に招聘され助教授に、イギリス・ドイツ留学を経たのちの1923年(大正12年)には教授に就任しました。

1937年(昭和12年)の盧溝橋事件直後、矢内原は『中央公論』誌に評論「国家の理想」を寄稿します。時勢が軍国主義に傾きつつある中で発表されたこの論文は、「弱者の権利を強者の圧迫から守護することこそが国家の理想とすべき正義である」などという趣旨の内容を抽象的な形で述べたもので、直接的批判を伴わないとはいえ時局に反するとして、大学内外で格好の攻撃材料とされました。結局同年12月、矢内原は教授職辞任を余儀なくされます。事実上の追放でした。

終戦後は経済学部に復帰、社会科学研究所長・経済学部長・教養学部長を歴任したのち、1951年(昭和26年)、東京大学総長に選出されます。2期6年これを務め、1961年(昭和36年)に胃癌のため逝去しました。

信仰と学問とを自身の強い根幹として困難な時代の中でも平和と理想を主張し続けた矢内原の意志は、21世紀にも受け継がれていかなければならないものといえるでしょう。

担当: 松澤有 *

吉田茂@青山霊園

吉田茂は、言わずと知れた戦後期の政治家です。1878年(明治11年)9月22日に現在の東京都千代田区に生まれ、その後横浜の貿易商の元に養子として引き取られます。

さまざまな学校を転々としますが、東京帝国大学法学部に入学したのは1904年(明治37年)9月のことで、それまで在籍していた学習院大学科の閉鎖に伴うものでした。1906年(明治39年)7月に卒業し、外交官としての道を歩み始めます。

政治家に転じたのは戦後のことです。1945年(昭和20年)9月の東久邇宮内閣、11月の幣原内閣の外務大臣を務め、12月には貴族院の議員となります。その後、1946年(昭和21年)5月に第45代内閣総理大臣に就任し、一度は首相の座を降りますが、第48~51代内閣総理大臣も務めています。内閣総理大臣に5回も任命されたのは彼だけで、在任期間は2616日にものぼります。

1963年(昭和38年)まで衆議院議員を務め、引退後も政界の実力者として影響を及ぼし続けていたといいます。その後、1967年(昭和42 年)10月20日に享年89歳で永眠しました。しかし、その子孫・親類は今でも政界で活躍しており、現在首相を務める麻生太郎氏も彼の孫の一人です。

彼はユーモアがある人としても知られています。自身の失言で衆議院解散・総選挙となった「バカヤロー解散」の際にも、「これからもちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく」とスピーチを行ったという逸話があります。

担当: 金井雄太 *

吉野作造@多磨霊園

吉野作造の墓

吉野作造の墓

1878年(明治11年)宮城県の綿屋の長男として吉野作造は生を受けました。1904年(明治37年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した後、中国に渡り袁世凱の長男の家庭教師を務めました。1909年(明治42年)から1914年(大正3年)の間に東京帝国大学法科大学で法学博士の学位を授与されるとともに、3年間にわたって欧米留学をしました。帰国後、総合雑誌『中央公論』で政治評論を発表し、また、1918年(大正7年)には民本主義的言論団体である黎明会を発足し、大正デモクラシーの代表的な論客となりました。

吉野作造は”Democracy”の訳語として敢えて民主主義という言葉を避けました。それは大日本帝国憲法下では天皇主権が前提であったため、政治主体が国民ではなく天皇であることを表すためでした。

吉野作造の墓は多磨霊園にありました。そこには「吉野家之墓」と刻まれており、お墓の右面が墓誌のようになっていて吉野作造の妻、妻の父母、そして長男、次女、六女が納められていると書かれています。吉野家の歴史を知るために一度訪れてみては如何でしょうか。

担当: 牧祥子 *

和辻哲郎@東慶寺

和辻哲郎の墓

和辻哲郎の墓

文化史家・日本思想史家としても知られる和辻哲郎は、日本を代表する倫理学者・哲学者です。その倫理学の体系は、日本人による独自の哲学体系であると言われ、和辻倫理学と呼ばれています。

彼は1889年(明治22年)兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(現・姫路市仁豊野)に生まれ、1912年(明治45年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業しました。翌1913年(大正2年)夏目漱石に出会い、深い感銘を受けて、文学者を志すようになりました。1919年(大正8年)に『古寺巡礼』において、飛鳥・奈良時代の古寺を紹介し、続く1920年(大正9年)には『日本古代文化』を著し、思想史的・哲学的に日本古代論を展開し、新しい日本像を打ち立てたとされます。

西田幾多郎との知遇を得て、1925年(大正14年)京都帝国大学助教授に就任し、倫理学者としての道を歩み始めました。1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部教授に就任すると、『風土』を著し、また、「人間の学としての倫理学」を唱え、その考えを『倫理学』に体系化しました。

1950年(昭和25年)日本倫理学会を創立し、以後倫理に関する研究とその普及に努め、1955年(昭和30年)文化勲章を受章しました。その後 1960年(昭和35年)心筋梗塞のため東京都練馬区の自宅で亡くなりました(享年71歳)。現在は鎌倉の東慶寺の一角に眠っています。

和辻哲郎は高校の倫理の教科書にも登場する人物なので、知っているという人も多いのではないのでしょうか。

担当: 大野雅博 *

東慶寺

東慶寺


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