文学部長インタビュー(小松久男教授)

文学部は東大開学時から存在する一方で、常にその存在意義を問われ続けている。宿命ともいえるこの問いに、文学部はどのように向き合うのか。2009年に学部長に就任した小松久男教授(東洋史学)にお話を伺った。


1. 文学部の「存在意義」 | 2. 文学部が目指すもの


幅広い研究領域

小松文学部長

文学部は全部で27の専修課程(研究室)からできていて、実に幅が広いのです。一般に文学部というと、英文学や仏文学のような「文学系」がイメージされやすいのですが、その他にも「哲学系」や「歴史系」、さらに心理学や社会学などの「行動文化系」、その4つの大きなグループ分けができていて、その中でさらに細かく分かれていきます。およそ文学部は人間と社会を研究対象にしていて、人間の心理や視覚の研究もあれば、美術の研究もあり、それから人々の社会行動を分析するような、実に幅広い研究が行われています。だから一言でまとめあげるのはとても無理なことで、数ある学部の中でも研究対象の幅が広いといえるでしょう。

文学部の「存在意義」

文学部の存在意義とは、昔からよく聞かれたことです。おそらく他の学部だったらどうかというと、「あなたの学部の存在意義は何ですか」とは聞かれもしない。なぜか文学部に限って存在意義を問われるようですね。これはある意味、文学部が愛されているのかもしれませんね(笑)。あるいはまた、役にも立たないことをやっている連中がこういう問いに対して一体どう答えるだろうかと、面白半分で聞くのではないでしょうか。だからあまり深刻に考える必要はないと思っているのですが、あえて言えば、文学部は人間と社会にかかわる森羅万象を対象としているわけで、人間が存在する限り絶えず出てくる問いかけを追究しているのだと思います。哲学は古代からありますし、歴史学だってあります。文学作品も古くから書かれていて、同時にそれを考察することもずっと続けられてきました。こうした営為はあってしかるべきことであって、何もあらたまってその存在意義を問われる必要はないと私は思っています。

最近問われるような「存在意義」には、おそらく実用に役立つかどうかという観点があるのではないでしょうか。少なからぬ予算を使って文学部が存在し、そこで生み出されたものがどのように役に立つのかという、おそらくそういう問なのだろうと思います。しかい、文学部の意義はすぐに生活の利便性に貢献するということではありません。少し抽象的になりますが、人間の探求心を満たすというか、人間の存在と深く結び付いていることです。たとえば最近、文学部の布施学術講演会で名誉教授の鈴木日出男先生が源氏物語をテーマに講演してくださいました。光源氏が愛した女性たちを具体的に取り上げながら分析していくと、源氏物語の本性というか、奥のところに古代のパトス(情念)が見えてくるという大変面白い内容でした。単に文学作品を読んで楽しむだけではなくて、その奥に存在するものを見つけるという探求の面白さがあるわけですね。これを実用性といった言葉で表すのはとうてい無理でしょう。おそらく実用性の尺度とは別の尺度を導入するとその面白さや奥深さが見えてくる、そういうことだろうと思うんですね。だから私は「文学部の存在意義は何か」と聞かれたときには、そのように答えるようにしています。

また数年前のこと、イェール大学の先生方と本学文学部のメンバーでお互いの現状についてワークショップをやったことがあります。そこで私は、日本ではよく文学部の存在意義に疑念を持たれるということを話しました。それに対してイェールの先生は、アメリカではそんな問いはありえない、大学である以上は人文学の基礎を教えるのは当然であって、そんな疑念には意味がない、と。ある意味、文学部の存在意義を問うのは日本特有の現象なのかもしれないですね。私はそれを聞いて大変勇気づけられました(笑)。実用性や利便性を前面に出してしまうと、大学と専門学校との違いもなくなってしまうでしょう。大学というのは総合的に学ぶところであって、すぐに役立つ知識や技術だけを追求する場ではないはずなんですね。人間を内側から育てていくという側面が重要なわけで、その面で文学部が果たす役割はとても大きいと思っています。誰も彼もが利便性や効率性に走ってしまったら、世の中はとてもつまらなくなってしまうと思います。およそ文化の質自体が低下してしまう。そういう世の中にはしたくないですよね。

文学部の教育の特色

小松文学部長

一番大きな特徴というと、文学部には演習という授業形態があって、例えば教師と学生が少人数で同じテキストを読みながらそれをどう読み解くか議論し合います。一回にほんのわずかしか進まないこともありますが、その文章を読み解く上でいろいろなことを考慮に入れて、それは一体何を意味するのかというのをとことん分かろうとする、そういう授業というのが文学部の大きな特徴です。著者の動機や背景などさまざまなことを考えるわけです。これは演習の場にいる人間でないと分からない一回性の楽しみともいえます。だから演習というのはとても貴重な場なんです。先人が残したものを理解するとはどういうことかを学ぶのは、やはりその人の内なる力になると思うんですね。

また文字面だけ読んでわかったように見えても、テキストは全く反対の意味を持っているというようなこともあります。だからテキストを読むというのはとても奥の深い作業なんですね。もちろん演習のすべてがテキストを読むわけではありませんが、ときにはテキストを読む中で人間とは何かということを知る糸口がつかめることもあります。だから読むことは大切なんです。その大切さや難しさを理解した人は、今度自分が文章を書くときに気持ちがこもるというかな、単なる形式的な文章ではなくて、そこにそこはかとない趣が加わるわけです。最近はパソコンを使って簡単に文章が書けるようになりましたが、それが果たしてどこまで深みのある文章になりえるかというのは別問題で、そういうものを書ける人、それをちゃんと読める人、そういう人を文学部は世に送り出すべきだと思っています。

文学部の社会とのつながり

特に理工系で産学連携が盛んに行われている一方で、文学部はそういうこととは一番縁遠い存在のように見えます。しかし、産学連携という言葉を使わなくても、文学部は社会ととても深く関わっています。具体的な例を考えてみると、文学部の教員はいろいろな形で本を書きますよね。研究書のみならず、語学の辞書をはじめ多様なジャンルの辞典や事典の編集に貢献しています。高校教科書の作成にも大変多くの教員が関わっていますし、いわゆる教養書と呼ばれるジャンルの本を通じて社会の知的なニーズに応えています。そういう面で文学部は実は社会と多くの接点があって、産学連携のように注目されるわけではありませんが、静かにしかし連綿と続くような関係が築かれていると思います。最近は本が読まれず、出版業界が全体的に沈滞しているのが残念ですが、文学部は日本の文化を支えるという点では、とても大きな役割を果たしていると思います。

もう一つ忘れてならないのは、文学部は多様な言語や文学を扱っているわけで、そのメンバーは相当量の翻訳にも関わっているということです。日本は明治以来、おそらく世界でもきわめて意欲的に海外の文化を学んできました。その際に日本語への翻訳は一つの基盤になったこともあって、日本は翻訳文化が高度に進んでおり、実際あらゆるジャンルで重要なものが手に入るといえます。岩波書店社長の大塚信一さんのエッセイによれば、デカルト(編注:「我思う、ゆえに我あり」で有名なフランスの哲学者)の著作が岩波文庫で版を重ねていて、通算すると膨大な冊数になるそうです。その話をしたらフランス人の研究者が驚いて、「フランス人は、試験のときでもなければデカルトなんて読まないよ」と。日本人の方がはるかにデカルトを読んでいるという、そういうところで日本の文化に貢献しているわけですよね。これが日本の文化に新しい要素や奥行きを与えたり、見方に多様性を生んだりすることになります。

あるいは日本そのものを一種相対化して考えるような糸口ができるわけですね。有名な例では『菊と刀』(編注:アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトによる著作)のように、外国人研究者の指摘がかえって日本人にインパクトを与えることがあるわけです。だから翻訳という作業は実に大きな貢献をなしています。華々しいことにはならなくとも、日本の文化全体を支える役割を立派に果たしているのだと思います。だから社会とはそういうところでとても密接な関係ができていますし、これからも続いていくだろうと思います。とはいえ、昔から文学部のメンバーは「社会貢献しています」などと、あまり口に出さないんですよね(笑)。けれども結果としては役に立っている。文学部は自分たちの殻に閉じこもっているということではまったくありません。社会と多様な接点を持っているし、実際に貢献できているのではないでしょうか。だから文学部もそうそう捨てたものではないですよ。


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