科学哲学

今回の講義紹介は、毎年夏学期に開講されている「科学哲学」について紹介する。この講義を担当している野矢 茂樹 助教授にお話を伺った。


「科学哲学」で扱う領域

野矢先生

「『科学哲学』とは何か」と尋ねられると、まず基本的には「哲学」なんです。「哲学」というのは、学問の一領域というより、一つの方法です。そしてその「哲学」という方法には「ある対象について根本的に考える」という特徴があるわけです。例えば、言語の成り立ちを言語学とは違う形で、ある根本的な問いを立てて考えていく場合「言語哲学」となるし、心について心理学とは違う形で根本的に問うていくと「心の哲学」ということになります。同じように、「科学」という対象に対して「科学って何だろう?何をやってるんだろう?」とか「今ある科学が唯一絶対のものなんだろうか?」あるいは「これから先、科学はどうなっていくのだろうか?」というようなことを根本的に問おうとするのが「科学哲学」です。

そういう意味では「科学哲学」というのはすごく広い範囲を持っています。例えば、量子力学や相対性理論が抱えている問題について哲学的なアプローチから考えるのも、「科学哲学」に入ります。でもこの講義では、そのような個別の科学に踏み込んだ狭い「科学哲学」ではなくて「科学って何だろう?」という、もっと素朴な疑問から出発するような内容にしています。

野矢先生

ここで難しいのは、授業ではあまり強調しないけれども「『科学』という単一の名前で呼ばれる対象がある」とは思えない、ということがある点です。一言で「科学」と言っても、宇宙論のような、とても思弁的な「科学」もあるし、一方では、企業での新しい洗剤の開発も「科学」なわけです。あるいは、「物理系」「化学系」「生物系」……という風に考えても、それぞれずいぶん違うものになっていますよね。だから、宇宙論のような研究をしている人と洗剤の研究をしている人を一緒にまとめて、「科学って何だろう?」と問うこと自体、不健全な感じはあります。「科学って何だろう?」という問いはこれから何度も問い直さなくてはいけないくらい素朴な問いかけで、つまり、まだまだ「科学哲学」の先は長い、ということなんですよ。このことを踏まえておいて、ともかくその第一歩として、「人間がこの世界について『知る』っていうのは、どういうことなんだろう?」という、それくらい大雑把な問いを立てて、考えていこうというわけです。でも、この大雑把さが、いかにも「哲学」だと思いますね(笑)。「大雑把だ」というのと「根本的だ」というのは、表裏一体のところがありますから。

素朴な段階では、「世界について唯一絶対の真理が存在して、その真理は一旦手に入れたらもう確保されて動かない」というイメージがあると思うんです。しかし、今ではあまりそういうイメージはもたれなくなっていて、「科学」でさえ唯一絶対の真理というほど堅い領域じゃないんだな、という感覚の方が常識的になっていると思うんです。その感覚は、「じゃあ、世界について何かを『知る』っていうのは、一体どういうことなんだろう?」という問いを発するには十分な動機になるのではないかと。そして、その問いかけに対して、「科学哲学」が一番活発だった20世紀中ごろの代表的な議論を取り上げて、再構成しながら考えていく、というのがこの講義の内容です。

専門分野と講義との連関

野矢先生

私の専門の分野は……、できれば「哲学」と一言で済ませたいところなんです。というのも、「哲学」というのは、あらゆるものが絡まりあって関係しあっているので、「ここだけやります」という視野の狭いタコツボ的な専門哲学者は、なんだかインチキだな、と思っているところがあるんです。なので「哲学」と言いたいところですが、もう少し気分を出すなら、「分析哲学」とか「現代哲学」というところでしょうか。古代から中世、近代へと問い継がれてきた問題を、現代においても現代の哲学者たちが問い続けていて、その中に加わって私も現代において哲学の問題を考えていこうとしているわけです。

もう少し紹介すると、その中でも「言語」「他者」「行為」などが私の哲学問題の関心の中に入っています。また、自分ひとりで哲学をしているわけではなく、できるわけでもないので、信頼できる過去の哲学者を自分の研究の対象にするんですが、私の場合はウィトゲンシュタインを研究しています。そんな中で、「人間が何かを『知る』ってどういうことなんだろう?」という問いは、当然視野の中に入ってくるので、私は「科学哲学」の専門家というわけではないですが、専門ではないからと言って関心がないわけではないし、全く疎遠な話題と言うわけでもないんです。

哲学を目指したきっかけ

私は理科一類出身ですが、もともとは文系か理系かわからない人間だったんですよ。理屈っぽくて一人で妄想にふけるタイプでした。だから、高校の授業科目で得意だったのは、数学と、現代文の中でも評論系の理屈っぽい文章。逆に、歴史とか理科は苦手でした。いまじゃあ哲学の先生なんだけど、倫理社会っていうのも、ダメですね。生物なんて、ボーっとしてたら10段階評価の2でしたから(笑)。それで、文系、理系どちらにしようか悩んでいたわけですが、高校2年の冬に理系にしようと決めて、それで理一に入りました。でも、やっぱりうまくいきませんでしたね。もともとあまり勉強せずに勝手に妄想してるタイプだったので、授業にもなかなかついていけなくなったりして(笑)。それで、することもなくてぶらぶらしていたんですが、あるときたまたま「科学史・科学哲学」というコースの授業案内を見つけて、「ちょっとおもしろそうだな」と思って学士入学で3年に編入しました。そこで、大森荘蔵先生という方と、ウィトゲンシュタインの本に出会ったんです。このことが私の中では大きくて、そこからどんどん哲学の世界に入っていきました。もともと、理屈と妄想にかけては他人に負けないものを持ってましたから、性に合ったんですね。

教師風のアドバイスになりますが、そういう人や本との「出会い」こそたいせつなんだと思います。たまたま出会ったものにグサーっと射抜かれて、そちらに進む、それには幸運が必要ですが、逆に言えば、そのチャンスを逃さないことがだいじなんです。自分一人でやっていても自分の力しか出せないけれど、そういう「出会い」は自分の力をブレイクさせてくれます。そういう「出会い」を大切にしてください。

つまり、なぜ哲学を目指したのかという質問に答えますと、哲学を目指したきっかけは「消去法と偶然」ということです。駒場の学生にも、あるいは高校生にも、必ず私みたいな人間がいると思うので、今言ったことを美化せずにありのままに記事にしてもらえると、そういう人たちを勇気付けられるんじゃないかなぁ、と思います(笑)。

文系も理系もいる駒場で、「科学哲学」を学ぶ意義

この講義では、「文系も理系もいる」ということにはとくにポイントはありません。もっと少人数の授業でディスカッションをするというような形であれば、「あぁ、いろんなヤツがいるところで授業をしている」っていう実感もあるだろうけど、何百人もの学生が受講している現状では難しいですよね。それは仕方ないことだと思っています。

ただ、「人間がものを知るっていうのはどういうことなんだろう?」という問いかけは、何よりもまず、これから科学に進んでいくであろう理系の学生に聞いてもらいたい、という気持ちは持ってます。また、「科学」というのは人間が世界について知ろうとする上で、一番先鋭的で豊かなものですから、文系だからといって、科学を無視して「何かを『知る』ってどういうことなのか」を考えることはできないと思います。というわけで、文系の学生にも理系の学生にも同じく聞いてもらいたいなぁ、とは思っています。

授業をする上での苦労・工夫

野矢先生

授業っていうのは不思議なもので、立て板に水のようにすらすらすらっと独演会をして、気持ちよく教壇から降りる、っていうのはあまりいい授業じゃないみたいなんです。もうずいぶん前のことですが、授業中に「あ、この話、今までこう考えてきたけれども、違う!」って自分の中で考えだしてしまって、頭が真っ白になって、何をどういう風に組み立てて話すべきかわからなくなってしまったことがあったんですよ。それで、しどろもどろになりながら授業をして、疲れ果てて、肩を落として教室を出ようとしたら、ある学生が「先生、今日の話はわかりやすかったですね」って言うんです。「えーっ?!」と思いましたね。後になってどうしてなのかを考えてみると、私が考えているそのプロセスを、学生がちゃんとフォローしながら聞いてくれるからだろうと思うんです。考えた結果だけでなく、考える過程が見えたから、むしろわかりやすかったんじゃないでしょうか。学生の前で自分が迷って、その迷いを出しても、学生はついてきてくれるという点で、私は学生に恵まれてると思いますね。自分一人が授業をして気持ちよくなっていてもダメで、もっと学生を信頼していいんだな、と思いました。

他には、自分で飽きないようにすること、ですね。基本的にこの講義は、毎年同じような内容を盛り込みながらやってるんですが、そうすると、自分で話をしていながら飽きてくるんです。例えば、「記号論理学」という授業もずっとやっていたのですが、あるとき、ガチガチの記号論理学を教えるのに飽きてしまって、それ以来「これは記号論理学の考え方の源泉です」とか言いながら「言語哲学」を教えるようになったんです。そんな風に、時々授業内容を変えるようにしてます。授業内容を変えると当然最初の学期はたどたどしくなるんですが、その方が学生が喜んでくれる、おもしろがってくれる感じがあるんですね。それはなぜかって、やっぱり自分自身が、教えることに喜びを感じているからだと思うんです。自分で授業の準備をしていて、「これはおもしろいな」と思って、「早く授業に行って、このおもしろいところを学生にしゃべりたいな」って気持ちになるんですよ。それが、一番理想的な状態だと思うんです。でも、それは本当に難しいことで、そういう状態に近づくために、授業の準備のときに、話の構成を変えたり、「今日の話はどこがおもしろいのか」を学生の視点からもう一度見直すようにしたりはしています。

もう一つ、ここまで話したことと関連するけれども、私が持っている科学哲学の情報や知識を整然と教えようとするのではなく、問題を提起して、その問題を解決するプロセスとしていろんなことを述べていく、というようにしています。だいじなことを最初に一度だけ言ってそこから無駄なく一通りのことを教えよう、という整然とした教え方は学生にとってはかえってわかりにくくて、逆にだいじなところを何度も何度も教えてくれる方がいいわけです。なので、「問題」を中心に授業を組み立てることを心がけています。

学生に伝えたいこと

私は、学生より上に立っているという気持ちがあまりないので、「伝えたいこと」というのはとくにありません。むしろ、私自身がやっておもしろかったことを学生諸君にも話して、一緒におもしろがってもらいたい、という方が大きいです。そこで一緒におもしろがってくれたら、あとはもう学生が自分一人で本を読んだりして先に進みますからね。

坐禅ゼミについて

――続いて、冬学期に野矢先生が開講し、毎年受講希望者が多く抽選となる「坐禅ゼミ」についてのお話も伺った。

私自身は、そんなに熱心ではないですが、もうずいぶん長い間坐禅をしているんです。坐禅をするとすごく気持ちが落ち着いて、余計なものが自分の中から取り除かれて透明になっていくような感じになるんですね。それを学生にも味わってもらいたいな、というのが始めたきっかけです。「君らも坐禅くらいやらないといかんぞ」とかいう気持ちはあまりないですね。坐禅というと「悟り」なんていいますが、そういうことはあまり意識していなくて、一学期間やってもらえれば十分その気持ちよさはわかってもらえると思います。そのことが、坐禅ゼミをやっている理由の半分ですね。もう半分は、「自分でも坐りたい」ということなんですね。禅堂に何人もの人が集まって、ある緊張感を持って、呼吸を整えて坐禅をしていると、禅堂の中が独特の空気になる。その独特の空気を感じることで、私自身も緊張感を持って坐れるんです。そういう意味もあって、毎年冬学期の間、学生を巻き込んで坐禅をしているわけです。

冬だけにしている理由は、「冬の方が気持ちいいから」です。真冬になると、それはもうちゃんと坐っていないと本当に寒いんですが、逆に、ちゃんと坐っていると寒さをあまり感じない。これは、精神力云々ということではないんです。坐禅では、1分間に3回ぐらいまで呼吸をゆっくりにしていく。それで、細く長く息を吐くと、副交感神経が働いて、末梢の血管が開いて、それでぽかぽかしてくる、とかいう科学的な裏づけもあるみたいです。だから、冬に坐禅をすると、ちゃんと坐れているかどうかの目安になるんですよ。それに、毎年ゼミの最終回では坐禅の後に温かい甘酒を出すことにしていて、それをみんなでズズーって飲んで、「はい、ご苦労様でした」って学期を終わりにするのが好きなんです。そんなわけで、冬にやるようにしています。けっきょく、楽しんでるんですよ。

取材後記

野矢先生

「科学哲学」の講義についての取材ということでお話を伺ったのですが、「科学哲学」のみにとどまらず、「哲学」全体についてや、その他さまざまなことを笑い話を交えながら話してくださいました。筆者も理系に進み、これから「科学」の道を進む者の一人として、この講義で学んだことをしっかりと心にとどめていこうと思うと同時に、進路に迷っている身として、これからの「出会い」を楽しみに待ちたいと思いました。